今週の映画川は、4月18日から公開される『インヒアレント・ヴァイス』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)の登場です。1970年代末のポルノ業界の光と影を描いた『ブギーナイツ』、1900年代初頭に石油採掘業でのし上がった男を主人公とした『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、そして50年代を舞台に新興宗教の教祖と元海兵隊員の関わりを描いた『ザ・マスター』と、20世紀にアメリカが辿った歴史をあぶり出してきたアンダーソン監督が今回取り組んだのは、トマス・ピンチョンが70年のロサンゼルスを舞台にして書いた探偵小説『LAヴァイス』の映画化。この一筋縄ではいかない話題作の魅力を、映画評論家の川口敦子さんがたっぷり書いてくれました。
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文=川口敦子


 さて困った。面白すぎる。書きたいことの断片がいくつもいくつも湧いてきて頭の中を駆け回りどうにもひとつに筋道が通らない。と、こう書きながらこれってまるで今まさにどうにかその素敵を伝えたいと格闘中の映画――ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)の新たな快作『インヒアレント・ヴァイス』のぐるぐるぐると迷走的かつ瞑想的な世界のスリルに通じる状態じゃない?! と開き直った。この「素晴らしい無秩序」――と、これは口伝『ロバート・アルトマン―わが映画、わが人生』(以下A)に寄せた序文でPTAが引いた師アルトマンの言葉だが、撮影現場に生起する最高の瞬間を評した先達のフレーズがPTA自身の映画をも牽引しているようなこと。昨年、『ザ・マスター』公開時に実現した電話インタヴューでのPTAの発言はこの興味深い現象に本人が決して無自覚ではないのだと証しして印象的だ。
「キャラクターを書く際にあまりにも多くのアイディアをもって臨むと、こうあるべきだとか、こういうことが起こるべきだと自分の意志や考えをごり押しするようなものになってくる。それって映画を書き撮る上で陥ってはいけない領域ですよね。現実を生きる人そのままに自然に話し、振る舞う登場人物であるならば、映画でよく起こるようなことはしない筈なんです。映画のキャラクターがよくするように変わったり、成長したり、決意したり、大いなる決断を下すみたいなことはしない。そこで作り手が筋を全うするだけのために登場人物に言いたくもないことを言わせるって僕にはできないんですね。強制的に動かしたら行き詰ってしまう。キャラクターの言うまま、するまま、それを信じて彼らの望むように書く。僕の望むようにではなく」
 自然発生的に生起してくる映画。その作法。ここでもまた師の影を感じさせる(とこちらの考えをごり押ししてはいけないのだが…)PTAの新作をみつめる上でもこの際、筋道をつけるよりは思いつくまま行き着くまま断片のままのメモを列ねてみることにしよう。


★第3段階のマーロウ
 世の中からはみ出した私立探偵がいて、調査を依頼する昔の(そして永遠の)恋人が現われる。事件。解決への糸口がいくつも提示され、怪しい面々が交錯し、そのくせ誰もどこにも行きつかぬままもっと巨大な何かがいきなり見えてくる――。原因が結果と結ばれるドラマの蓄積、プロットの整備よりはできごとが団子の串刺し状態で列なっていく『インヒアレント・ヴァイス』の構造はその種の小説や映画、ジャンルの定型を案外、すっきりと射抜きながら、変わることも成長することも決意や決断をすることもなく日々をやりすごす人々の世界を流れるままに映しとる。変わらない、変われない人と世界の物悲しさと虚しさとがゆっくりと降り積もる。
 チャンドラー+リー・ブラケット+ホークス『三つ数えろ』の世界を換骨奪胎したといえなくもないピンチョン+PTAの私立探偵ドックことラリー・スポテッロ、"終わりの始まり”1970年に相変わらずマリファナの煙の中にいて終わった時代の夢をまだ見続けているひとりを「サイト&サウンド」誌(2015年2月号)は、"第3ステージのマーロウ”と評している。真ん中にチャンドラー+リー・ブラケット+アルトマン『ロング・グッドバイ』を挟んでのそんな比較検討は比べるのは悪い癖だと自戒しつつも退け難く迫ってくる。もちろんピンチョンの原作(09)より先に出たコーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』(98)もあれば時代の節目に有象無象が蔓延っているLAアッパークラスのいかがわしさを捉えていたジャック・スマイト監督作『動く標的』(消えた大富豪、謎の教団…)もと数え上げたらきりのない類型の山。だが、ここで一番、気になるのはやはり『ロング・グッドバイ』のこと。ただし70年代にたらたらと漂っているアルトマンとPTAの探偵ふたりの実相は似ているようで案外、対極の位置を指し示しているかもしれない。ハリウッドの規格をはずれたニューシネマ俳優エリオット・グールド版マーロウは、70年代ヒッピーたちのLAに苦虫かみつつぼやきつつ「ま、いいか」と大いなる諦めを呑み込んでいる余計者、時代の部外者、傍観者だ。「70年代初めのロスの景観の中をうろうろしているマーロウ、ただし心情的には過去のモラルを喚起しようとしている男」(A)なのだ。
「彼にはダークスーツと白いシャツを着せネクタイもという身支度をさせた。他の連中はみんな香を聞いたり葉っぱを吸ったりトップレスで歩き回ったりしているのに、あるいは誰もが健康食とヨガと”ナウな”ことに夢中の時代にだ。そうやってあの時代をまるごと風刺してみせた」(同)
 親友の裏切りに怒りの銃弾を発射して、しかしそれもまた、たかが映画と"ハリウッド万歳”のやけに陽気な調べに吸収されていくエンディング。いい加減の衣の下に生き延びているまっとうな人の道、健やかな想い、それに水を差す時代に向けた消化不良のやりきれなさがじんわりと観客の胸にも染みていった。時代や人や世界の虚ろに向けたアルトマンの眼はどこまでも覚め返り、それゆえに厳しい慈しみを感じさせた。
 かたや70年生まれのPTA、同時代に生きたわけではないけれどユートピアと革命の夢の残滓のそのまた燃えかすのようなものを多分、子供ながらに見聞きしていたはずの監督が差し出す探偵は、ヒッピーの側にいて、取り残され、夢の砦ともいうようなマリファナの煙と洞窟めいたビーチハウスの暗がりに自閉していく存在だ。祭の後の虚しさを噛みしめて甘い郷愁にも似た悲しさを生きている。アルトマンの眼が湛える時代への距離に対して、PTAのそれは映画の最初に切り取られる覗き見を思わせる視界に重なっていくだろう。左右のビーチハウスの隙間から垣間見える海。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』でも『ザ・マスター』でも横長のスクリーンいっぱいに広がるアメリカの景観を切り取ってきた監督の新作が今回は制限され裡へと向かうそれを映すようにのっけから広がり切れない時空を差し出す様に目を奪われる。同時に覗き見の視界は後から来た世代としての居場所をも指し示すのかもしれず、喜劇の体をとりながらじわじわと映画を満たしていく郷愁の感触、メランコリー、その愛おしさのことがもう一度、思われもする。



☮70年代 もしくはニール・ヤングのラムチョップ型のモミアゲ
 欠乏したマリファナのありかをこっくりさんのボードで占って、裸足で駆け出す恋人たちの雨の午後、サンセット大通りのドックとヒロインとの懐かしい時空に映画はニール・ヤングの「過去への旅路」を伴走させる。
「ニール・ヤングの歌みたいな甘い悲しみを湛えた映画を作ろうとしていた」「ドックのルックスに関しては1970年頃のニール・ヤング、ラムチョップ型のもみあげをのばした彼の外見を盗んだ。ワードローブの幾つかも、もろ彼からのいただきだ。ヤングって存在ときちんと向き合わぬままこの時代、このカルチャーをめぐる映画を撮るなんてできないだろう」(ザ・ガーディアン紙2014年12月28日)
 往時のヤングのVの字の眉した精悍な顔つきは少しだけ亡きリヴァー・フェニックスとも通じていていかにも感慨深かったりするのだが、その兄を超える存在感で当代一の役者と呼びたいホアキン・フェニックスを得たことが『ザ・マスター』でも本作でもPTAの大きな支えとなっている点は改めて確認しておきたい。そういえばフェニックスも『ブギーナイツ』のマーク・ウォールバーグも、70年代映画で育った90年代インディの雄PTAとジェームズ・グレイの映画で共に重用されている。『トゥー・ラヴァーズ』『エヴァの告白』とグレイがフェニックスのがっちりとした体躯に鎧然と張り付いたナイーブさを輝かせるのに対し、PTAの場合には彼の存在の耐えがたい重さ、不器用さ、そこで孕まれるどす黒い闇と奇怪な躁状態との落差の美に光を当ててみせる。同じ俳優のそれぞれの活かし方は両監督の資質をもまた照射するようで見逃せない。『獣人』のジャン・ギャバンの――といったら些か大仰に響くがそれに通じるような重量級の悲劇性を芯にしてたらたらラリラリのりのりの70’S探偵に扮しても、その瞳に結晶のような悲しみを宿すフェニックスの演技は圧巻だ。少し前の80年代青春スター軍団が壮年期を迎えて尚、ボーイッシュな魅力に頼りがちと見える中で、当り前の歳月の堆積を顔に体躯に佇まいに滲ませ得る強味も備えている。その強味は昨年のインタヴュー時、PTAも絶賛してみせたものだ。
「ホアキンには往年の映画スターのルックが備わっている」「時代物を撮ると配役の選択肢が狭まってくるのを感じる。すごくいい俳優はたくさんいるけれど、外見にしろ、身についた資質にしろ現代的過ぎるって点がひっかかってくる。例えば50年代の初期にふさわしいある種の顔、それを備えて演技もできる役者をと見回すと可能性はものすごく狭いものになってくる」
 ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、ベニシオ・デル・トロ、エリック・ロバーツ、さらにそれぞれに時代を体現する女優たち。選択肢の狭さを打っ遣る配役の妙も本作のお楽しみに他ならない。

★時代の敷石をはがし続ける意志
 小説『LAヴァイス』(新潮社)に付された訳者、栩木玲子+佐藤良明両氏の素晴らしく奥深い解説でも触れらているようにピンチョンは「舗道の敷石の下はビーチ!」と、パリ68年5月のデモ隊が残した落書きをエピグラフとして掲げている。それを最後にもってくるPTAの映画は、全篇の語り手を務めるソルティレージュの鼻にかかった声(ジャンルの常道に揺さぶりをかける女声の語りという点にも注目したい)に託して問う。60年代末、夢見た新しい世界は結局、昔ながらの欲望と恐怖、力のシステムに洗い流されたのか――と。時代を振り返るその声に切り返すようにドックが呻く。困惑の顔が『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』に続くアメリカ20世紀を振り返る3部作を鮮やかにしめくくる。
「50年代初めというのはある意味でそれ以前にあった総てのことごとのせいでハングオーバーに陥った時代だと思う。サイエントロジーの始まりがあり、帰還兵たちが居場所をなくして病んでいった。そうしたことが同時に起こっていたというのは偶然ではないように思える。もちろん50年代のファッションや音楽の魅力もあるけれど、そうした表面的なものの下にもっと興味深い何かが起こっていたと思う」
『ザ・マスター』の背景を語った言葉はそのまま新作の70年代に向けた眼とも重なっていく。敷石を剥がし押さえつける力に投げつけ抗った革命の時代。その意志を受け継ぐようにグル―ヴィな70’Sの表面下をこそ撃つPTAのノワール・コメディは時代の敷石を剥ぎ続ける気風を強かに示しているだろう。



インヒアレント・ヴァイス Inherent Vice
2014年 / アメリカ / 149分 / 配給:ワーナー・ブラザース映画 / 監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン / 原作:トマス・ピンチョン / 出演:ホアキン・フェニックス、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、キャサリン・ウォーターストン、ベニチオ・デル・トロ

4月18日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田ほか全国公開
公式サイト



川口敦子(かわぐち・あつこ)
映画評論家。著書に『映画の森―その魅惑の鬱蒼に分け入って』(芳賀書店)、訳書に『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』(アルトマン著、キネマ旬報社)などがある。