boidマガジン

2018年12月号

宝ヶ池の沈まぬ亀 第30回 (青山真治)

2018年12月26日 13:27 by boid

青山真治さんによる日付のない日記「宝ヶ池の沈まぬ亀」第30回は、自宅のメンテナンスと映画館通いの年末の記録。『笠原和夫傑作選』(国書刊行会)を読み進めながらシネマヴェーラ渋谷の「滅びの美学 任侠映画の世界」特集に通い、その合間に『A GHOST STORY / ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ロウリー監督)や『バルバラ セーヌの黒いバラ』(マチュー・アマルリック監督)といった新作映画も鑑賞。さらにアラン・ロブ=グリエの映画と2つの舞台、地点+空間現代『グッド・バイ』(太宰治原作)と風姿花伝プロデュース『女中たち』(ジャン・ジュネ脚本)を一気に鑑賞し、「生と死との往還」をまざまざと見た濃密な2日間のことなども綴られています。




文・写真=青山真治



30、走るカサハラ、走るロブグリエ


某日、ヴェーラ東映任侠特集、通称「カサハラ通い」始まる。脚本家・笠原和夫作品を中心に見ていくことになるが、中心に、というのはそれ以外のものも結果的に見てしまうことを指す。例えば『日本大侠客』という若松の話で近衛十四郎の顔を見ると直後の『悪坊主侠客伝』を見ずには済まない、といったように。天津敏の善玉というのは見た記憶がないので驚くが、悪くない。一方、汐路章のぬらりと闇に蠢く身のこなしはやはり極上。夜景が良くて、波止場で逢引する鶴田と藤純子にふと『阿波の踊子』の記憶が蘇るし、藤の末尾の引きはあっという間だがこれぞというベストショット。階段に一升瓶を転がす出戻りの芝居も見せた。しかし二本見て近衛がやや物足りなかったが、視覚への攻撃に異様に拘る『悪坊主~』の良きパゾリーニというか炭鉱で『春の劇』が突然始まったかのようなほとんどシュールなリアリズムにひたすら面食らった。この印象は田村孟『悪人志願』に通じるギリギリの低予算から発したものか、執念のにおいが全編に漂う。ラスト、少年は何を呟いたのか。笠原中心と云いつつ、同時にマキノ=負の中心を顕在化し、さらにその不在が現在を不自由に蝕んでいることさえ意識させる。図らずも異様な年の瀬の幕開け。(追記:なんと『悪坊主』も笠原が改訂したことが判明)

某日、着席後トイレに出たら追って来てチケット拝見するル・シネマというへんな映画館で『バルバラ』。このシャンソン歌手について予備知識皆無だったが、知識はそれなりにあるはずのブリティッシュロックの映画を見るよりたぶん百倍くらい理解できたはず。というか正直、今年ベストワン。監督がマチューだからというわけでなく、すべてのショットが自分の好みに合っており、主演がジャンヌだからというわけでなく、身のこなしも台詞も何もかもシャンソンそのものと口走る体感。この手の映画にありがちな押しつけがましさ(私はそれが反吐の出るほど大嫌い)など微塵もなく、登場する誰もが慎ましく礼儀正しくそこに在る、その手触りがわかるということがここでいう理解であって、物語を説明せよと云われても一言も出ないだろうが、それでじゅうぶんである。終の棲家となる家の扉にある覗き穴から中を見る透明な緊張、帰宅直後ピアノへの愛を吐露しつつベッドに横たわる歌手の優雅きわまる肢体。あと十回は見たい。「カサハラ通い」二日目『人生劇場  新・飛車角』。脚本の速度と演出の粘着が妙に相反して対処に困るが、ここに笠原の初発を見て取るべきが妥当なのだろう。笠原的主題として「男」が描かれるが、対して立つのは「女」ではない。「男」に対してべつの「男」(YS連盟)が、さらにまたべつの「男」(西村晃)が重なるのが笠原の構造である。仮に「女」があるとしてそれは最初の「男」の分身、美しい立ち姿のその「男」の「腐臭をひきずる」側面として「女」がある。昨日の『日本大侠客』でも磯吉が忘れる「腐臭」をお竜がひきずってドラマは進み、お竜の「自決」によって磯吉は完成する。出会いにおいて「男みてえな名前だな」と揶揄されるマー坊ことまゆみと飛車角の関係も同様……といった仮説を以て今後も「カサハラ通い」を続けよう。それにしてもここでの、ぬめるような手指で現れる西村晃と佐久間良子の関係は当時すんなり理解されたのだろうか。途中「女は弱いから」とか「私は汚れてしまった」とかいう台詞を何度も聞くが、それが説得力を持ちえたのか。弱いのは女ではなくドラマではないか。イプセンに似て、いまや通用しない、ととりあえず言ってみる。

某日、渋谷にて『ア・ゴースト・ストーリー』。デヴィッド・ロウリーのことはケイシー・アフレックの顔とセットで記憶していたが、前情報なしで臨み、いきなりそのケイシー登場で吃驚。過日「リリー、ローズマリーとハートのジャック」を聴いて『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を思い出していた。で、これだが、アメリカの若手はみんな誰かに『2001年』を翻案するとしたらキミはどんなものにする?……みたいな宿題でも出されたか、と『マザー!』で考えたことを復唱する。あるいは、誰もが一度は考えつくけどさすがに本当にやるとなると笑ってごまかす、的な。家ぶっ壊すブルドーザー(去年似た場面見た記憶あるけど何だった?)や布の中が消えてバサッと落ちるところなど『マザー!』よりずっと好み(ジェニファー>ルーニーではあるが)だが、断固画面サイズなんかで褒めたりしたくない。あと、音楽のせいだろうか、もはやアメリカ映画はアメリカでなくてもかまわなくなった気がして寒々しい。是が非でもディランかニール・ヤングを、などと云う気はないが、プログレを聴きたいとも思わず。ここでも後半、ラ・デュッセルドルフか、とか、他所では「スターレス」がかかると聞いて行く気が失せた。先日『スリー・ビルボード』でダン・ペンが聴けて、あの映画でそこだけよかった。ちなみにピン送りしがちな日本の若手は本作を見て真剣に考え直すべき。帰りにニトリでホーローのポットを贖う。



某日、ぱるるの調子が頗る良くなり、日がな共に過ごす。飼い主の方は年が明けても一向に上向きになりそうもない気配をいまから感じながらだらだらしていると消えてしまいたくなる。玄関の鍵が調子悪く修理を呼んだり、スーパーで細々と散財したりしても何ら気晴らしにはならない。ともあれこの二日は自宅蟄居。春琴写本のみが快楽という退嬰。

某日、義母の猫、逝去。享年十三歳。この家に越した年に産まれ、私が取り上げた。四時間睡眠のため昼寝。起きてから衣装部屋を断捨離。きれいさっぱり。夕餉(ボンゴレパスタ)後に十日ほど読みあぐねていた課題図書を読了、その副次的話題について珍しく夫婦で建設的な会話。それにしても「普通の小説」を読むのに時間がかかり過ぎるのは職業的にかなりハンデと痛感。要は細かいことにひっかかってちゃあダメということなのだが。夜半、TAMA NEW WAVEコンペで植木咲楽『カルチェ』がグランプリ、村上ゆきのが女優賞の報。非常にめでたい。『オーファン~』も『カルチェ』も編集をやり直させたくて仕方ないが、一生忘れないだろうショットをいくつか持っていてそれはやはり凄いことだ。咲楽は『榎本武揚』で演助をやってくれた。今年は京造快進撃であった。

某日、ぱるるの滑り止めのためのパンチカーペット敷設という、家具移動不可避の作業命令がお上より下され、再びスケジュール変更を余儀なくされる。午後はこの作業に終始。途中で義母の猫、荼毘に付される。日暮れて夕餉は、巨匠から若手に引き継がれたと聞いた白金のとんかつ「すずき」。とんかつ自体は安泰なれど白飯の品質著しく低下。この店はすべてのバランスが絶妙なのが麗しかったのだが。帰りにスーパーでなにげなく贖った「くるみ餅」が超絶うまく夫婦で貪りつつその出自など検索。その後、頭の中がなぜかオリヴェイラだらけで、邦盤のないいくつかの作品を夢想し続ける。そう云えばウォルシュ特集が中断し伊藤大輔も『幕末』まであと数本残。半端でいけないので年内にどちらかは終わらせたい。夜半、ニコラス・ローグの訃報。享年九十歳。なんといってもEurekaの人だからな、合掌せんわけにはいかない。

某日、午後に三田のホームセンターで買い物した後、ヴェーラ。小沢茂弘、多数撮っている六〇年代後半の二作品だが、出来があまりに違い過ぎて驚く。それが脚本家の差によるかどうか、たぶんそうなのだろう。出来の悪い方(それでも最低限のプログラムピクチャーの条件はクリアしている)は置くが、笠原脚本『博徒七人』はかなりいい。企画段階で監督と揉めたようだが、設定など出鱈目を極める一方、ロケーションが非常によかったり俳優陣が殊の外生き生きしていたりでじゅうぶん堪能した。五人まで出て来てあとの二人は?と見ていると不意に、しかも見事に現れ、それが速度によってごく自然に飲み込めるあたりの呼吸も作り手たちの手腕を評価すべきだろう。自然と云えば、大木実が白馬で疾走しても動じずに見ていけるのも、こちらがどうかしているのかと不安になるほど。帰宅して、もはや潰えていく理想に悲歎しか感じない『西郷どん』を見ていると、人斬り半次郎がライフルぶった切って「戦で生き残るには刀だ」などと叫ぶのだが、六〇年代後半の仁侠映画が飛び道具とともに色褪せていくのを日々見ている者としてはこれも辛い話。偶然にも『博徒七人』の鶴田も半次郎という名前だった。

某日、家のメンテナンス工事始まる。ぱるるの病院は女優に任せて植木屋につきあう。午後、手違いで地底の塩ビ管が断裂、バルブを止め水道工事屋に連絡。待つこと数時間、現れた職人の手により20分で問題解決。久方ぶりに技を見た。日暮れて、今日も終わりかとネットを開くとベルナルド・ベルトルッチの訃報。呆然とさまざまな思いが去来する。数日前に書いた『人生劇場 新・飛車角』についての論考、あれを書きながらベルトルッチを思い出さなかった己の不明を恥じる。ベルトルッチにおいても「男」が葛藤する対立項はあくまで「男」であり「女」は「男」の分身としてその「腐臭をひきずる」形でファシストかジャンキーかその両方になる、これがベルトルッチ的世界だとして、では笠原に対してベルトルッチの現代性とは何かと考えると、まさにその「女」による欲望の実現が「男」の代行としてではなく不意に「男」と手を切って「女」自身の能動的な生として独自に歩き始める点ではなかったかと『シェルタリング・スカイ』(これが「大人の映画」であることと、この企画がそもそもアルドリッチのものであったことは決して無縁じゃない)のデブラ・ウィンガーの結末を想起しながらいまの自分を凡庸な納得へと落ち着かせる。そしてそうは云っても、空を飛ぶ夢と同義にあられもなく稚戯に耽る行為としての移動する視点の時間的持続に、たんに惚れていただけの自分を忘れたふりをする……何の為かは知らないが。こうしたことを書くと得てして精神分析的に受け取られがちだが、たんに物語の構造がそう、つまり詩学以上でも以下でもなく、父母だとか民族学的な影響を考える必要はまるでない話であることは強調しておくべきかと思う。

某日、寝惚けた夫婦は休院日も犬を連れて行く。当然とんぼ返り。そのまま自分が病院へ。午後、ぱるる用のカートが届き、組み立てて買い物に出かける。籠から顔を出したままなので気が気でないがいつか慣れるだろう。テレビで溝口・小津・黒澤の4K修復話をやっていて、笠原/ベルトルッチの男女の話はそもそも『近松』から、という当然の事実に気づかされ我ながら呆れるが、間に笠原が挟まることで視野は変わる。夕餉はハウス選ばれし人気店シリーズ「旧ヤム邸・牛豚キーマカレー」。これは美味。中辛にしては辛いが問題ではない。ごぼうの食感や良し。

某日、起床と同時に著しい眩暈。移動にいささか支障を来す。数日間いつもと違う導眠剤を服用した影響か。午後まで安静に努め、どうにかヴェーラへ。降旗康男『日本暴力団 殺しの盃』。インタヴュー本では(たぶん)触れられていないが『仁義なき~』直前で総会屋などかなり取材をしたらしい題材。作中「福原」と称される地方都市の開発利権をめぐる構造が台詞で詳細に語られるが、何しろ経年劣化でプリントがボロボロ、もう少しで筋がわからなくなる程というのも珍しい。降旗が決して活劇の巧い人でないことは確かだが、これだけ切れ切れでも筋の複雑な構造が掴めるように出来ているのは脚本のおかげだけではない気がする。一方、これまで追ってきた笠原的構造だが、終幕の工藤明子の「分身」ぶりに露骨な剥き出し感さえ覚えるのはいわゆる手がなくなってきたということか。加えて鶴田、丹波、山本麟一の「男」たちの愛憎関係もまた。同時に、構造は同じでも内実は『人生劇場 新・飛車角』からずいぶん遠くまで来た。佐久間の「女」が抱えた性差別的通俗性は、工藤においては妊娠を盾にした部分以外ほぼ解消している。本作でこの図式が試みた仁侠映画の作劇はここで完結、『仁義~』から始まる実録路線と『県警対組織暴力』を挟んで再度『やくざの墓場 くちなしの花』で返り咲きとなるか、見直してみないと正確には言えない。夕餉はステーキ。夜になってシナリオ改訂稿の催促。ハコを細かく見直し始めたばかりだがとりあえず送るしかない。逃避して、すでに三週見ている『獣になれない私たち』。ドラマ本筋には惹かれないものの松田龍平氏の演技、圧倒的にいい。

某日、作業は深夜におよび、朝の病院は欠席して食事の支度。朝餉は鰤、蝦、餃子という和中折衷。すべて美味。午後、久しぶりにとっぷり湯船に浸かる。諸々待ちの体勢で永日『春琴』写本。佳境。鶯のくだり、凄すぎる。春琴の芸に伍しようという肚か。夕餉は豚汁。隠し味はヨーグルトとのこと。書評、着手。深夜、月蝕歌劇団・高取英氏の訃報。

某日、伊豆へ。荷物が多すぎ、また食料を大量に買い込んだせいで到着時すっかりへとへとで眠りに落ちる。数時間で覚醒、まずチョン・ジェウン『蝶の眠り』。大学含め、ロケセットの空間設計が秀逸。たんにホッとするが、ホッとするだけでもいい。続いて伊藤『いとはん物語』。これといい同年『地獄花』といいこうした企画が通る当時の大映の豊饒っぷり。双方力作だが、同時に相当な異色作、というか珍品。東映の鶴田とこちらを交互、いろんな意味で腰が砕ける。翌日、編集者A氏来りてクルーゾー版『恐怖の報酬』、『やくざの墓場 くちなしの花』、増村『卍』、阿部豊版『細雪』など。半分近く眠りこんでいたがさらに翌日松本勝がレンタカーで来訪。どこかに遠出する訳でもなくなお島耕二版『細雪』、『羊たちの沈黙』など。二人が帰ってからデミ『ハート・オブ・ゴールド』でしみじみしたあと『壮烈第七騎兵隊』『大雷雨』という「41年のウォルシュ」を見てしまい、クレージーホースにロングヘアと呼ばれるエロール・フリンの騎馬姿があまりにも素晴らしくて史実とかなんとかふっ飛ばして外の事をすべて忘れてしまいそうになる。忘れると云えば市川版『細雪』の板倉はたしか一徳さんだったと思うが、入院の際ベッドから転げ落ちるアクションがあったか思い出せない。田崎潤も根上淳も痛がりっぷりが壮絶だった。どいつもこいつもとんでもねえやつだ(特に妙子)と悪態を吐きつつもしかすると高峰も叶順子も最高作ではなかったか。またあれこれ問題はあっても『大雷雨』のジョージ・ラフトは偉大だった。ラスト、台詞なしのカット三つで泣く。そしてディートリッヒの挙動が製作側のセクハラとしても本作の偉大さに瑕をつけるものではいささかもない。そんなわけでほぼ寝ていたかDVDを見たかだけの四日間はあっという間、すごすご帰京。

某日、メンテナンス第二日。ガレージの補修。帰路の疲れもあり、ただぼんやりと過ごす。国書刊行会様より『笠原和夫傑作選』二巻恵投いただく。今月にはもう一巻出る模様で実に楽しみ。第二集には『沖縄進撃作戦』や『実録・共産党』も収録。第三集には『昭和の天皇』『226(第一稿)』。年末は読書だけは困らない模様。早速『やくざの墓場 くちなしの花』をおさらいするが、仁侠における「男女の相克」はやはり『仁義~』と共に終わっていた、というかここでの「男」=渡は任侠の外側にいる刑事であり、出会う「女」はすべて任侠世界から向う側へ行った「男」たちのかつての分身、というか生きながら葬られた「亡霊」であり、それは菅井きんの名演が光るチンピラの母親も例外ではない。本作はいわば「亡霊」のコレクションとしての番外篇と見做すべきか。梶芽衣子に対する渡のVサインは死後の世界への挨拶であり、背後から渡を撃つ室田にそれを向けたのは(『仁義の墓場』直後の)深作の倒錯なのかどうか。そして問題は、ベルトルッチのように「女」の存在を「男」から離れた能動的な生と呼べるか、それともデブラ・ウィンガーの場合も生きながら葬られた「亡霊」に他ならなかったのか。このときもしかするとボウルズ的なトランス・ジェンダーの視点が必要なのかもしれないし、実はそれこそが笠原的視点なのかもしれない。



深夜、大量の汗をかき、右の拳が驚くほど固く握られ左の指で解かねばならないほど、さらに全身に刺すような痛み、激しく疲れて着替えるべく風呂へ入り、もう一度寝る。このためロブグリエと『祇園の暗殺者』を無念にも見逃す。ロブグリエまだチャンスあり。一日寝て暮らす。それでも夜半に仕事の追加依頼あり、これまた払暁に及ぶ。

某日、帰京三日目にしてようやく調子を取り戻し、朝の支度再開。しかし休み々々。来年の舞台用の戯曲に手を入れた後、渋谷『日本女侠伝 激斗ひめゆり岬』。爽快さと重苦しさが混然一体となった沖縄が仁侠映画にこれほど似合うとは。他の沖縄ものには感じたことはなかった。本作は「いま見られるべき」という側面含め、今回の「カサハラ通い」中の白眉だった。普段分り切ったこととして書く気もしないが、あらためて現在でもこの国家がせっせと続ける度し難い愚策と文化破壊の暴力への憤怒を本作と分かち合う。玉砕を強制する軍の凶行場面あたりから涙が滲んでしかたなかった。なお、ここでも「男」と「女」は因縁で結ばれた「分身」であり、女は男の腐臭をひきずることになるが、それが国の腐臭に巻かれる琉球の比喩かどうか断言したくはない。豪雨の下、金網を挟んで血を流す男と絶叫を上げる女との鮮烈さは簡単には記憶から消えない。下北沢で忘年会に出席。帰宅するとキネマ旬報。特集は「80年代外国映画ベストテン」だが、もはや何十年代が誰の時代かなど問う気も起らず、まるでここぞとばかりに欝憤を晴らすような怨念の渦中に『俺たちの明日』も『卒業白書』も巻き込まれていないことを確認し穏やかに酔いを醒ましているとなぜか『男の傷』の三文字が目に飛び込んでこのあまりの贅沢にまたぞろ酒が戻ってきた。パッサーを記憶しているかどうかはもちろん時代とは全く関係がない。

某日、二日酔いで一日潰す。開戦の日に『笠原和夫傑作選』第三巻届く。テロ、特攻、帝国、天皇、226と並ぶ、本年度最重要課題図書。さっさと読み始めたいが、そういうわけにもいかず。NHK宮川一夫特番、特に感慨なし。鴛鴦のことに触れてくれないと、などとないものねだりしても始まらない。それはそうと右足が非常に痛む。もう四年ぐらいになるか、冬になると必ずやってくる痛み。今年は例年に輪をかけている。



某日、起き抜けから右足の異常が半端ない。跛行し続ける。朝餉は鶏腿酢煮込み。請われて送られた脚本を読み込む。午後、笠原『博奕打ち 殴り込み』。強烈な津島サウンドに乗った小沢の演出が山下(直前の『総長賭博』があまり買えない)を超えたかもしれない一本。津島ジャズから浪曲に乗り替わる転調(玉川良一といとしこいしの絶妙な呼吸)など実にいい。脂の落ちかけた加東大介がいい。『博徒七人』に続く松尾嘉代がまたいい。いいのだが、前回に続いて『けんかえれじい』を想起、コメディエンヌの陽気さの蔭に「亡霊」を垣間見る、がゆえに男女より親子の予感が先立つのか。つまりそれは二人の「男」が自分の「分身」として死なせてきた「女」たちを統合した形の「亡霊」であり、松尾は鶴田と加東それぞれの「女」の仮託された存在となり、そこだけは留保。ふと、見てきた作品群の「男の傷」の系譜に気づく。そして可視的な傷の多くは視力に影響を与える。あるいは大木実のように歩行困難を抱えることもあって、どちらも性的不能に関与するかもしれない。ここでの鶴田は徹底して渡世人の仁義というか哲学をルールブック的に語り続ける。こういうときはこうするのがスジだ、と。こうした内容もおそらく取材の賜物だろうが、筋金入りとはいえ一匹の「野良犬」を浅草の大親分を諫めるほどのその道の大家として置く説得材料があるだろうか。その結果それがこのホモソーシャルの脆弱さを暴いているとも云える。同じ建物で塚本さんの『斬、』。跛引き引きイメフォはつらい、というわけでもないが、毎度敬して遠ざけ続ける先輩を今回だけ駆けつけたのは池松君と時代劇による。さすがにキャメラの置き所からして貫禄がちがう、紛うことなき時代劇。どうしてもどこかで映画に向かう欲望がすれ違う塚本さんと私なのだがそれはそれ。ぶら下がった腕が落ちるタイミングなど喝采ものだし、池松君は想像を超えて秀逸だった。笠原のシステマティックな機能美としての構成とそれを半ば破壊する塚本さんの冷静な狂気との対面にはどこか薄氷を踏むスリルを覚えた。帰宅し残り物で夕餉の後『西郷どん』。まあ泣くのだが、しかし糸が退却の場に現れるというのは史実なのだろうか、信じ難い。フィクションとしたら許し難い。周作君、お疲れさま。

某日、あまり日記をサボると頭が悪くなる、というか鬱的な要素がどんどん濃くなっていくのでよくない。月曜にロブグリエを見て、いまは水曜の夜。矢作さんの忘年会があり、甫木元のPVの打合せに行き、ワタリウム美術館の浅野君の絵画展を見て、豊原君のライヴを聴き、それからさらに一日経った。いろんなことがどんどん雲行きが怪しくなっていき、考えるべきことは山積だがなす術なくただぼんやり。「新潮」に依頼された書評(寺尾紗穂氏の『彗星の孤独』)を書くうち、徐々に頭ははっきりしていく。ロブグリエがあまりに衝撃過ぎて、他のことがどうでもよくなりかけたが、オトナなのだからとなるべく感情穏やかに生きた。結果、一度だけ徹夜して上梓。それなりのものを書けたと思う。さらに木曜、上京した甫木元と新曲の構成を練る。そうやって目の前のことは考えられるが、あるいは遠い未来のことも無責任に考えられるが、ほんの少し先に待っているか待っていないかわからないことについてどうしようもない状況にあり、それゆえにぼんやりしてしまう。今年はそろそろ店じまいにすべきか。そんな朝、ソンドラ・ロックの訃報。傷だらけの人生は最後に報われただろうか。



某日、編曲作業に甲府へ。東名海老名から相模湖に抜けて中央というルートを初体験。なるほど、と目から鱗の三十分弱。しかし遅刻も災いし演奏にもうひとつ乗り切れず、記憶が薄い状態。翌日は疲労もあり終日茫洋。あっという間の一週間で『西郷どん』最終回。平成も終わることだし、もう大河は見ないことにするか。まあ、もう見ないと宣言した朝ドラもちょこちょこと見ているのであてにはならない。個人的には一蔵の訃報を聞いた糸に泣き崩れてほしかったのだが、そういうシーンはなかったのでおれが泣き崩れなければならなかった。そのままだと精神が持たないので酒呑んで安定するが、もちろん妻に叱られた。だがこの行き場のなさを何で解消できるだろうか。アマゾンの少数部族の生き残りのドキュメンタリーを見て、さらにどん底に近い悲しみを味わう。

某日、アトリエファンファーレ高円寺で『喜劇新オセロ』。戦前の戯曲をそれ以来の再演。若手俳優の熱演が好もしい。特別でないこのような小サイズの作品をちらりと見て歩くのがごく当たり前になれば面白い状況が生れる……という話をかつて梅本洋一とした。それにしても高円寺、ぶらぶらしてみたら面白い。先月だったか久しぶりに訪れた阿佐ヶ谷もそうだったが、のんびりしたなかにも新しい風を感じた。

某日、昼から『モスクワへの密使』。マイケル・カーティスがキワモノ好きのへんなひとであったことを改めて認識。これなどは『父親たちの星条旗』を連想する「国債宣伝映画」だが、登場はないと高をくくっていたスターリンに驚愕しつつ、一方ルーズヴェルトにはこれが噂の『ツイン・ピークス』のリンチの原型かと確認する。山本均氏と久方ぶりに再会。その後、中目黒で打合せ。年明け以後を総合的に考え直さなければならなくなる。

某日、終日外壁塗装のための足場立ち上げ作業の翌日は、なんとなく見るのが怖くなっていたロブグリエに戻り『不滅の女』。やはり圧倒的に面白い。最近のホン・サンスもなかなか頑張っているが、ちょっとレベルが違う。その意味でドライヤーとかブニュエルなどと連ねて論じられるべき作家と云って当然であり、遅ればせとはいえ当然のように見られる環境になったことを祝福、というか安堵せずにいられない。しかしこの偉大な小説家が自分より先に監督デビューしなかったことを誰より安堵したのはレネではなく「ショット」と「サウンドトラック」のフラグメントとしての意識をほぼ同じくするJLGだろう。主役もエキストラも同じ資格でスタンドインとして本番画面に映りつつ何度も「リテイク」する映画を撮ったのはJLGを除けばロブグリエだけ(まあタチか)ではないか。ちなみにドーベルマンを連れたアルドリッチのせいでアパートの玄関ホールの俯瞰は南部の豪邸と見紛うし事故後の白い車のガレージはババブーンにしか見えなくなるという珍事により本作は『アメリカの友人』と並んで最も『キッスで殺せ』に似た映画になる。素晴らしいジャック・ドニオル・ヴァルクローズのクローズアップだって『甘い抱擁』しか思い出さない。足の調子がいいのでイメフォからユーロまで徒歩移動。クレール・ドゥニ『レット・ザ・サンシャイン・イン』。最初、ちょっとしんどそうな話かと引く気もしたが、ビノシュの家の壁にどうやらエタ・ジェイムスらしきジャケットが飾ってあるのが見えるとやおら姿勢を変えて、だんだん音楽も本格的になってきては男運の悪すぎるビノシュはいつもより見てられるなどという甘い気持ちにつけこむようにお約束のエタのバラードによるダンスシーンが始まり、ついに武装解除。文字通り筋金入りの大人の恋愛映画なのだが、そこからの怒涛の展開にそんな悠長な表現で満足している場合ではなくなり、エンドロールに至ってタイポグラフィーも含めて声を上げそうになるほど。これからご覧になる方のためにあえてすべてを秘密にしておくが、帰宅してなおニヤニヤ笑いが止まらなかった。ようやく落ち着いてから食パンにS&Bスリランカ風キーマカレー。なかなかの美味で、さらに新潟産の洋梨も加え、ここ数日で最も幸福な一日を終える。

某日、足場立ち上げ~板金工事。その間、朝餉(鮭)・スケジュール整理・写真含む本稿まとめなど。女優も義母が床に領収書を拡げて整理などバタバタ。家の中が急に年末くさくなる。なんとかいろいろ終わらせ、吉祥寺シアターへ。地点+空間現代『グッド・バイ』。ここから二日間、演技とは生と死との往還であるということを、ロブグリエ『嘘をつく男』ジュネ『女中たち』・・・と繰り返し確認することになる。最大の発見は、太宰が台詞の巧い作家であったということ。三浦基によれば、幼少期に老人たちの語りを聞いて成長した太宰は口語のセンスが磨かれている、と。三島しかり。自分に語るべき物語はなく、借り物の物語を卓抜な口語で語る術に長けた作家たち。もちろん地点の口語=演劇センスがなければ簡単に実現されはしなかっただろう。そして空間現代の演奏も。終演後、三浦や姉上、安部さんらと長く語らって帰路に着くと電車が遅延。なんとか中野まで戻るが、そこからは車に頼らざるをえず、ところが運転手が道を間違え、さらに家の閂がかかっていて締め出しを食う。撮影中の妻を起こせないので、明け方ようやく気づかれるまで数時間、家とコンビニを往復した。仮眠してイメフォに向かうつもりがさすがに体動かず。午前を諦めて『嘘をつく男』。太宰のように、生に耐えるために死んだふりという演技を繰り返すという形でのシェイクスピア(三人の魔女・妻(カトリーヌ)=首謀という『マクベス』構造、オフェリア)を交えたボルヘスの変奏。しかしここへ来て、ARGの唯一の弱点は凝りに凝った編集にあり、という疑惑に至った。ベストショットだらけで切るに切れないというのは演出に漲るB級精神に悖るではないか。ミスのない顔(俳優・トランティニアン/探偵の廃棄≒道化、という最良の使い方)の選択もその瑕疵に拍車をかける。もちろん『M』のようにエンドレスで見ていられる面白さだがそれはそれ、ここでエンディングでもいいのではないか、と考案する箇所多数。実は本作のみならずどの作品にも言えることで、あと10分短くていいはずだ。齊藤Pとの打合せを挟んで目白へ。鵜山仁演出・ジュネ『女中たち』。劇場として吉祥寺シアターも公的施設のわりに悪くないが、このシアター風姿花伝は素晴らしい。そして主従関係という地獄を生き延びるための死んだふり、または生きているかすでに死んでいるのか不明の世界からの叫びを、三本連続で耳目から体に沁み込ませる。中嶋朋子、圧倒的。これほど強い演技をいまの日本で見ることはなかなか難しいのではないか。しかしそれゆえにか、設えのシンプルさを求めてしまう。殊に中央に陣取る鏡のない鏡。重要な装置だが、それだけに主張が強すぎた感が否めず。ともあれ目白駅までの長い帰り道を心地よい疲労とともに歩いた。夜半、銀座千疋屋ビーフカレー。スジ肉がやや固いのが難。

某朝、親と同世代の天皇の、天皇として最後の誕生日会見。天皇という旅なる比喩、皇后を讃える言葉にもらい泣き。そんなわけで『ヨーロッパ横断特急』を見逃したまま本年最後の日記を終える。爆発的につらいことの多い一年だったが、夏の高知旅行と秋のユーロスペースでの特集上映には重ね重ね救われる思いがした。皆様に心からの感謝を。来年はいろいろ何とか報いていきたいものである。

 
 
(つづく)






青山真治(あおやま・しんじ)
映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況としては、「新潮」2月号に久しぶりの登場は、寺尾紗穂『彗星の孤独』書評。2月9日(土)に中野plan-Bにて『はるねこ』上映と甫木元空バンドのライヴ。

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