本日1月9日より公開されたアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『世紀の光』。2006年に製作され今回が劇場初公開となるこの作品は、緑に囲まれた場所に建つ古い病院/都会の近代的な病院と、2つの病院を主な舞台に、そこで働く医師や患者の姿が描かれていきます。この映画を構成する不思議な時間や記憶の層について、樋口泰人がアピチャッポン監督にインタヴューした際の発言をもとに考察します。



取材・文=樋口泰人


 アピチャッポンの映画は声の映画だと書いたことがある。そう書いただけで、アピチャッポンの映画を1度でも観たことのある人ならすぐに納得できるほど、登場人物たちの声の処理は特徴的だ。とにかく滑らか、落ち着いていて柔らかく空気の中に広がっていく。いや、おそらく少し湿り気を帯びて液体状になり、そのまま皮膚をすり抜けて体内に侵入して細胞の隅々にまでいきわたったタイの柔らかな空気が、その人間の身体を通して再び世界に現れるのだと言いたくなるような、単にその声の主である個体ではなく、その個体が係る世界全体との関係の柔らかさとしての声が、そこから聞こえてくるのだった。しかしもちろん、それがどの程度監督にとって意識的なことなのか。無意識だからこそそれができるのだとも言えるような、主体と客体との境界線が消えたところから発せられる声がそこにあるのだ。

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