
エキセントリックたれ
文=松井宏
先日やっとクリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』(16)を見た。IMAXで見たほうがいいよと、ひとから言われていたのだが、残念ながら「普通の」スクリーンで見た。が、ものすごく感動をしてしまった。どこかホン・サンス映画のような、進んでいるようで進んでいない時間、進んでないようで進んでいる時間が、そしてそこから来る奇妙な小ささと親密感が『ハドソン川の奇跡』にはあったのだけど、何かが背筋を走るような感動を生じさせられたのは、物語終盤、トム・ハンクス演じる機長のサリーと副機長が公聴会に呼ばれ、事故時のボイスレコーダーの再生が終わったあと。「ちょっと休憩させてほしい」とサリーが言い、副機長と一緒に廊下に出る。サリーは副機長に向かって、どう思うかを尋ねつつ、ところが、じゃあ俺が思ったことを言うぞ、ということで、こんなことを口にするのである。「I am so proud of ourselves. We did our job」。
人間の「誇り」というものについて、ぼくは久しく何も考えずに生きてきたと、そのとき、はたと気づいた。いや、はたして生まれてこのかた、考えたことがあったのだろうか。誇り? しかし誇りとはいったいなんぞや。ナショナリズムの手垢にまみれがちなこの言葉だけれど(日本人の誇り、とかは本当にどうでもいいわけです)、自分たちの成し遂げた何ごとかを誇りに思えるまでにイーストウッドが映画内で費やさざるをえなかった時間というものは、いったいなんだったのかなあと、ふと思ってしまう。
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