文=Soi48
ついに2月末に我々Soi48はDU BOOKSより『旅するタイ・イサーン音楽ディスクガイド』を発売する。この本は単なるディスクガイドではなくイサーンを旅行した気分でタイ音楽の歴史を紹介するコンセプトで製作している。タイ音楽の知識ゼロでも楽しめるので是非手にとっていただきたい。今回紹介するのはタイ音楽を代表する巨大ジャンル"ルークトゥン"、通称"田舎の歌"と呼ばれるこのジャンルを発展させた伝説の楽団である。王族の血を引く超エリート・オーナーとラオス系タイ人の関係。この不思議な組み合わせこそ、現在も生き続けている"ルークトゥン"というジャンルのアイデンティティを築き上げたのだ。その歴史を今回紹介していきたいと思う。
伝説の楽団ジュラーラット
ジュラーラット楽団
1957年から1973年にかけて活動をしたジュラーラット楽団は、タイのルークトゥンの歴史に残る伝説のバンドと言える。特に60年代は黄金期で、70年代に活躍する多くの歌手を生み出している。チャーイ・ムアンシン、トゥーン・トンチャイ、ポーン・ピロム、パノム・ノッポーン、シープライ・ジャイプラ、ポーン・プリーダー、サントーン・シーサイ、ブッパー・サーイチョン、そしてペット・ピン・トーンのノッパドン・ドゥアンポーンもこのジュラーラット楽団に所属していた。このバンドのオーナーがモンコン・アマタヤグンである。まずは彼の異色の音楽経歴を紹介していきたい。
1918年、モンコンはバンコクの名門、アマタヤグン家に生まれた。アマタヤグン家は王室と深い繋がりがあるエリート中のエリートで、タイ人だったらその苗字を聞いただけで恐れをなす存在である(アマタヤグン家のことを何人かタイ人に訊いてみたがみんな知っていた)。モンコンはタイの東大と言われるチュラロンコン大学の獣医学部を卒業しており、頭脳も優れたエリート中のエリートだった。
しかし卒業するとモンコンはラジオドラマの脚本や制作に携わるようになり、その後作曲家や、テーサバーンナコーン・クルンテープ楽団(バンコク市役所の楽団)の楽団長という獣医学部とは全く関係のない世界でキャリアを築いていった。お金持ちだった為、この当時から欧米音楽も相当聴いていたらしく、モンコンの音楽好きは有名だったそうだ。
1946年にドゥリヤヨーティン楽団に参加、その後、自身の名を冠したモンコン・アマタヤグン楽団を設立。まだルークトゥンとルーククルンという区分けのない時代に、映画館や社交ダンスのイベントなどで演奏していた。その時のメンバーにはウォンジャン・パイローッや、後に名作詞家として知られるようになるパイブーン・ブットカンがいた。パイブーン・ブットカンもまたモンコン同様ラジオドラマの脚本を手がけていた。1947年パイブ―ンの妹の夫であるサワディパープ・ブンナークがパイブ―ンをスカウトし、レコードデビューする。モンコンもまた時を同じくして、ディー・クーパー・ジョンサン・レコード会社のレコーディングスタジオの監督となり、その立場を利用してパイブ―ン・ブットカンのレコーディング・アーティストとしてのキャリアをサポートしていった。そしてモンコンはタイのレコード産業を発展させるパトロン的存在となっていく。
また、サワディパープ・ブンナークの出身であるブンナーク家も、タイの歴史上に刻まれている名門中の名門一族である。王室と深い関わりを持ち絶大な権力を持っており、ラーマ五世のチャクリー改革で権力を削ぎ落とされるまでは国の中枢にいた一族だ。このように王室と関わりが深い、名門の出であるモンコンと、ブンナーク家人脈を利用して音楽界でのキャリアを築いていったパイブーンの出会いがルークトゥン誕生の裏側にあったのは非常に興味深い。
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