今週は2本の映画川を掲載します。まずひとつめは、先々週に続き、テアトル新宿他で公開中の空族の最新作『バンコクナイツ』(富田克也監督)について。三浦哲哉さんが、当マガジンの空族による連載「潜行一千里」でも描かれていた出来事を踏襲したあるシーンとひとつの台詞に着目した上で、『バンコクナイツ』という作品を通して生成されていくものが何であるのか、この映画が何によって作られていくのかを考察していきます。




文=三浦哲哉


 『バンコクナイツ』は、期待を上回るすごい映画で、見たあとしばらく放心状態がつづいた。二回目を見てようやく落ち着いてきたが、まだ心の中に消化しきれないものが残っている。
 この映画には「傑作」と言うことをためらわせるものがある。多くのひとが同じような感想を持ったようで、未見時に知り合いの編集者に「『バンコクナイツ』良かった?」と聞いたら、「スケールが大きすぎて、切り口も多すぎて、映画として良いとか悪いとか、そういう枠では語れない……とにかく見て」と言っていて、実際、見てみてそう言いたくなる気持ちがわかった。
 ではなぜ、映画として良いとか悪いという判断がしがたいと思われるのか。これもすでにたくさん指摘されている通り、ロケーション撮影された画面の端々から歴史の現実が横溢するように感じられるから──そのような横溢を誘うよう、この広大な物語の各所に空隙が設けられているから、だろうし、また、イサーンの音楽の分厚い響きが、劇中でかならずしも明示的に語られてはいない、この土地で暮らす人びとのフィーリングを、画面と層状に折り重ねるという「音楽映画」ならではの構成ゆえのことでもあるだろう。
 それらのことと隣り合っていることかもしれないが、そこにもう一つつけ加えるとするならば、本作は――エンドロールで映されるメイキング映像によってあらためて気付かされることでもあるが――まさにいま、何者かによって作られつつある映像に立ち合っているという、きわめてスリリングな感触を観客に抱かせると思う。いわゆる「ロードムービー」が、いきあたりばったりの道行きをそのままシナリオに変えてゆくような、偶然を取り込みつつ出来上がっていくかんじ、に近いけれど、それよりももっと深いところで、生成しつつある何かに立ち合うことの感動が、本作にはある。それは何か。

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