今週の映画川は、『ハッピーアワー』(濱口竜介監督)と『ジョギング渡り鳥』(鈴木卓爾監督)の2作品が登場。まずロカルノ国際映画祭の最優秀女優賞、ナント国際映画祭の「銀の気球」賞&観客賞を受賞するなど公開前から大きな話題となっている『ハッピーアワー』は、濱口監督が「即興演技ワークショップ in Kobe」に参加したほぼ演技未経験の俳優たちとともに作り上げた5時間を超える大作。一方、『ジョギング渡り鳥』は鈴木監督のもと、映画美学校のアクターズ・コースの生徒たちがキャスト兼スタッフとなって作られたメタSF映画です。映画評論家の川口敦子さんがこの2つの映画から、演技という"時空”、そしてそれを統御する監督という存在について考察します。

『ハッピーアワー』  © 2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト



文=川口敦子


 アサイヤス『アクトレス~女たちの舞台~』でジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツと、世代も背景も異なる3人の女優の競演を前にして、久々に俳優の技に素直に惹き込まれた。演技というものの時空のまざまざとした在り方も悪くないなあ、と言葉にするといかにも間抜けな感慨を噛みしめた。噛みしめつつ、しかしこの時空をそうやって素直に肯定したくなる、そうなるように差し出している監督という存在、それあってこその感慨なのだと、もっと間抜けなことを今改めて、真摯に受け止めてみたいと思った。そんな思いはその後、立て続けに出会った2本の映画でいっそう無視し難く迫ってきた。
 鈴木卓爾監督と彼が講師を務めた映画美学校アクターズ・コース第1期に集った俳優たちとを軸にして放たれた『ジョギング渡り鳥』。そして濱口竜介監督と彼の「即興演技ワークショップin Kobe」に参加した17人とのセッションから生まれた『ハッピーアワー』。一見、結びつけようもない2本の快作はしかし、どちらも演技と映画と監督とコントロールというあまりに根本的なテーマ(の先にはもちろん観客も連なっている)を新鮮に提起し直す。もう一度、考えたいと思わせる素敵な尖りをつきつけてくる。

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