boidでは12月に遠山純生さんの翻訳による『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(原題”A Third Face:My Tale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”)を刊行予定です。そのイントロダクションとして、5回に渡ってその自伝の一部をboidマガジンの読者の方だけに先行公開してまいりました。今回はその最終回、「サミー、走るんだ」と題された第5章を2ページでお届けします。

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著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生


第5章
サミー、走るんだ



 まだ13歳の誕生日も迎えていなかったのに、新聞出版界の中心部に無理矢理参入することになったのである。午後2時半に学校を出ると、3時までにはジャーナル紙に顔を出し、新聞が印刷に回されるまで仕事することになっていた。時には、真夜中まで仕事が終わらないこともあった。記者の机の下で眠り、翌日に前日と同じ服装のまま学校へ行くはめになったことが、幾晩もあったのだ。こういうことがあると、母はひどくいらいらした。
 「サミー、自分の姿を見てごらんなさい!」と、ようやく帰宅したわたしの汚れたズボンとシャツをじっと見ながら彼女は言った。「こんな仕事を本気でやりたいと思っているの?」と。
 「これこそやりたい仕事なんだ、母さん!」
 今日に至るまでも、夢中になれるプロジェクトに関わっている間はずっと、どこで眠ろうが何を着ようがお構いなしだ。いやはや、ジャーナル紙で働くことをどれほど愛していたことか! わたしのような、世の中のことを知りたくてたまらない小僧にとって、この仕事は途方もない冒険だった。学校の教室で机の上に本を1冊置いたまま腰かけ、一方教師は数学の公式を黒板にだらだらと書き続けている間、わが目は窓の外を見つめ、わが心はいまだジャーナル紙のニュース編集室にあった。教室を駆け出して、原稿運び係としての仕事に戻るのが待ちきれなかったのだ。
 パーク・ロウで精力的にニュースを追う大人たちに囲まれて、わたしは急速に成長した。主に人類の暗黒面を学びながら。日毎に集めてまとめ上げるべき情報は豊富にあった。けれども実のところ、新聞が売れるのは暴力、セックス、スキャンダルのおかげだったのだ。例外もいくつかあった。重要な裁判、労働争議、議事妨害、海底に埋もれた財宝、勇敢な英雄的行為、政変が第1面のニュースを飾ることもあったからである。著名だったり有力だったり愛されていたりする人物の死も、読者の関心を惹いた。
 ニューヨーク・サン紙の傑出した編集者チャールズ・デーナは、アメリカ人記者にとっての基準を定めた。「犬が人を噛んでも、ニュースにはならない。よくあることにすぎないからだ。けれども人が犬を噛んだら、ニュースになるのだ」と。記者たちは──ブラッドハウンド[英国原産の獣猟犬・警察犬]、魔法使い、文章家としての性質をそれぞれ少しずつ備えた──特別な種族だった。他紙を特ダネで出し抜くだけでなく、仲間の記者たちをも出し抜こうと、新聞ダネを手に入れるためにがむしゃらに働いていたのだ。わたしは彼らのことを、畏れうやまっていた。
 編集者たちはこれまたまるきり違う人々で、何でもでき、老獪で、頼りになった。彼らは新聞全体の外観であるとか調子を決定する責任を負っていた。赤鉛筆をさっと動かしながら、編集者たちはでかい写真やどぎつい見出しを割り込ませつつ、第1面トップ記事として使う記事を指定した。別の赤マークで、第2面あるいはもっと重要度の低いずっと後ろの方のページに回される記事たちが指定されていた。ニューヨーク・トリビューン紙の発起人ホラス・グリーリーの亡霊が、編集者たちを監督していたにちがいない。彼らは毎日、あり得ないほどの時間的制約の下で困難な選択をしなければならなかったのだ。締め切り期限が迫ってくると、あたりに漂う緊張感をナイフで切れそうなほどだった。
 「正確にいつその野郎は殺されたんだ?」と電話口で編集者が受話器の向こうにいる記者に怒鳴っていた。「2日前? 目撃者が必要だ。誰か見つけろ! ああ、だ! 目撃者なら誰だっていい! そう、今すぐにだ! あと1時間で印刷に入るんだぞ、ちくしょう!」と。
 新聞社のヒエラルキーのなかで最下層に位置する原稿運び係たちはといえば、行ったり来たりしていた。わたしはがんばり抜いた。わが年齢、熱意、駿足が周囲に好印象を与えたようだ。わたしの存在はすぐに編集者たちや記者たちの知るところとなった。彼らはわたしの素早さや粘り強さを、高く評価してくれたのだ。
 「サミー、この原稿をスポーツ部へ持って行け!」
 「サミー、これを急いでライノタイプに回せ!」
 「サミー、印刷室から校正刷りを持ってこい!」
 わたしはまた、地下室に貯蔵されている密造ビールのケースを運び上げる係を務める小僧でもあった。密造ビールは、運動選手たちがスポーツ記者を訪問するために立ち寄った際にふるまわれた。運動選手のなかには、トリス・スピーカー、ロジャース・ホーンスビー、ベイブ・ルースといった、大物中の大物である野球選手たちがいて、オフィス内をぶらぶらし、リング・ラードナー、デイモン・ラニアン、ウィリアム・ファーンズワース、グラントランド・ライスとおしゃべりし、冗談をとばし、一緒に飲んでいた。こんな環境の一部になれた幸運が、とても信じられなかった。
 夏休み中に、わたしは昼間勤務に異動した。何ヶ月もの間、原稿やビールやそのほか駿足を要するものなら何であっても飛び回って運んだ後、新聞社の地下にある参考資料室──記事や写真がクリップで留められ、整理保管されているところ──に配属された。この部屋にある"埋蔵物”には、夢中になってしまった。記者たちは、その日に発行される新聞に書かれた諸事実が、すでに発表された記事に基づいていることを必要としていた。ほこりっぽいファイル群のなかに眠っている情報を、掘り返したものだ。あの頃、記憶は人の頭のなかにあったのであって、彼のコンピュータに内臓されている電子集積回路のなかにあったわけではなかった。
 「サミー」と、ある編集者が尋ねた。「ジャージー・シティでチャップマンが銀行強盗をしたのはいつだ?」
 「7月22日です」
 「その日の何時?」
 「午前11時45分。ちょうど支店長が、奥さんと一緒に昼食をとりに出かけようとしているところでした」
 「確認して、証拠となる記事を持ってきてくれ」
 「わかりました」
 わたしは自分の署名入りで記事を書く記者──事件記者──になることを、何よりも熱望していた。何らかの昇進の声がかかるまでは、原稿を携えて飛び回ったり参考資料室で働いたりすることになっていたのだ。ふさわしい年齢になったら、記者を務めるチャンスすら与えてもらえるかもしれない。14歳になったばかりで、新聞社の原稿運び係のなかで最年少だったわたしは、昇進のチャンスをつかめる日がくるまで永遠に待たねばならないような気がした。原稿運び係と記者との間に走る亀裂は、グランド・キャニオンより大きく開いているかに思われたのだ。けれども待つことになるなんて、くそいまいましいことだ! どんな手を使ってでも、記者になってやるつもりだった。いつか有力な社会部長になる日がくるかもしれない。いやいやそれどころか、自分の新聞の編集長になったっていいではないか。
 さしあたってわたしが目標としていたのは、ジャーナル紙の伝説的編集長アーサー・ブリズベーンとじきじきに会うことだった。ブリズベーンは、ローマ教皇のような存在であった。猊下はニュース編集室に一度も入ったことがなかったのだ。けれども、彼はニュース編集室のあらゆる机にその長い影を投げかけていたのである。ブリズベーンに関しては、すさまじい量におよぶ逸話を聞かされていた。曰く──発行部数を増やした。トップ全段抜きの見出し用に、業界随一のでかいタイプを使っていた。そのコラム『トゥデイ』が、国をあげての話題となった。世界一高給取りの新聞人だった。ブリズベーンの名はパーク・ロウの至るところで、最大限の敬意を払いつつ口にされていた。それなのに、わたしはこの偉大な男を見かけたことすらなかったのだ。一流編集者たちを除けば、ブリズベーンを見たことのある者は誰もいないように思えたが。
 ある日玄関をぶらついていたところ、ジャーナル紙のヴェテラン電信技手ヘンリー・ハドソンにつかまって男子便所へ連れて行かれた。実を言えばわたしは、ブリズベーンがおしっこをしに来たら、一目彼のことを拝めるのではないかと期待していた。老ハドソンは微笑み、編集長には専用のトイレがあるのだと説明した。ボスがわれわれ凡人と同じく、タオル代わりに巻かれた新聞用紙を使うなどと本気で考えていたとは。ブリズベーンはジャーナル紙の建物に入るための、専用玄関すら持っていた。
 その後のある日のこと、マルカーイーのオフィスにいたわたしは、彼が最年長の原稿運び係の一人に臨時の"飛び回り仕事”としてブリズベーンのオフィスに報告をしに行くよう命じているのを耳にした。わたしはその18歳の少年の後についてオフィスを出ると、彼が手洗いし髪を櫛でとかすために便所へ入ってゆくのを見届けた。やるなら今だと思い、行動を開始する。わたしは7階の廊下を走った。両側の壁にずらりと貼りつけられた禁止表示の列──"止まれ!”"私用廊下!”"邪魔するな!”"立ち入り禁止”──をくぐり抜けながら。"編集長”と記されたオフィスに走り込むと、そこは広大で静まりかえった待合室だった。二人の秘書が、ロールトップ式蓋つき机に着いて仕事をしていた。至るところに、積み重ねられた新聞雑誌の山。床から天井までそびえ立った、荘厳な書棚の数々。この部屋も秘書たちも、ハーストが数十年前に新聞事業に乗り出した頃から変わっていないかに思われた。
 「マルカーイーに言われて来ました」と、しらじらしい嘘をつきながらわたしは言った。
 秘書の一人が電話を取り、受話器に向かっていくらかしゃべると、彫刻の施されたマホガニー材のドアを指し示した。わたしはその神聖なる入り口まで歩いてゆくと、ドアを開け、あたかも神殿に足を踏み入れるかのようにしてなかに入った。すると大きな机の向こう側に、偉大なるアーサー・ブリズベーンその人が座っていた。ジョゼフ・ピューリツァーの弟子にして、ハーストのブレーンが! 背が高くてたくましい見てくれの、文句のつけようがない服装をした、広い額の持ち主であった。その頃62歳だったにも関わらず、彼は20代の運動選手みたいに動いた。想像していた以上に、ブリズベーンは堂々とした人だった。唖然としつつ、わたしは彼のことを別の惑星からやって来た生き物みたいに見つめていた。
 「編集部から来たのかね?」とブリズベーン。
 「はいそうです」
 彼はわたしめがけて書類かばんをほうった。「ドゥエーン通りの角、警察署の左側にリンカーンが1台停まっている。運転手の名はジョージだ。赤いセーターを着ている。彼にその書類かばんを渡して、車のなかでわたしを待っていてくれ」。
 「かしこまりました」と答えた後、何か追加の指示があるかと待ちながら、ちょっとの間黙った。
 「名前は?」とブリズベーンが尋ねた。
 「サミュエル・フラーです」とわたし。
 「よしサミュエル、早くしろ」
 部屋から飛び出すと、廊下を走り抜けてエレベーターの前を通り過ぎ、石の階段を駆け下った。階段には人っ子一人いなかったけれども、わたし以前にここを大急ぎで上り下りした者が大勢いたのだ。われわれはみんな、共通目的のために働いていた。明けても暮れても、大都市向け新聞にニュースを掲載するという目的のために。ジャーナル紙の建物には、歴史の匂いが立ちこめていた。わたしはその香気が大好きだったのだ。
 ドゥエーン通りに駐車されている巨大なリンカーンは、見逃しようがなかった。ブリズベーンは数分後にやって来て、後部座席に座っていたわたしの隣に乗り込んだ。車は道路に出て行き、往来の激しい通りをさーっと走り抜けて、ブリズベーンの次の約束の場所へ向かった。彼は何かの原稿を校正し、"AB”とサインすると、これを編集部に急いで戻すようわたしに命じた。ジャケットの内側にその原稿をすべり込ませると、街の中心の交差点でリンカーンから飛び降りた。そして地下鉄に飛び乗って、それから走ってウィリアム通りに戻ると、7階までたちまち駆け上がった。
 わたしのしでかした真似がマルカーイーの知るところとなるや、彼からクビするぞと言われた。きたないぺてんを使ったわけだから、解雇されて当然だった。ブリズベーンに嘘をついたわけではなかったが、事実を話すこともしなかったわけだから。確かに編集部からやって来たには違いなかったのだが、ただし原稿運び係の名簿にわたしの名はなかった。この件を知ったブリズベーンは、マルカーイーにもう一度わたしと会いたいと伝えた。
 わたしはブリズベーンのオフィスめがけて、廊下を突進した。老秘書たちは手を振ってわたしを通してくれた。わたしが部屋に入ると、ブリズベーンは立ち上がった。手厳しくされたが、彼はわたしの勇気を高く評価してくれた。やがてブリズベーンは魔法の言葉を口にした。「サミュエル、今からわたしの原稿運び係になってもらうぞ」と。「いい気になるなよ」と得意の決め台詞をつけ加えながら。
 なんと、わたしはお山の大将になったのだ! 続く数ヶ月間、ブリズベーンのリンカーンを何度も何度も目にすることになった。どこかの豪奢なホテル、オフィスビル、あるいはレストランの外で、わたしはジョージと待ち合わせて後部座席に乗り込んだ。じきにブリズベーンが会合や昼食を終えて、建物から姿をあらわす。広々とした革張りのシート上には、ドラムに新しい蝋管が装着された、ブリズベーンのディクタフォン[速記用口述録音機]があった。彼が機械のボタンを押すと、蝋管が回転し始める。ブリズベーンは口にディクタフォンのマイクをあてがうと、社説を口述した。口述が終わると、蝋管を手渡され、ジャーナル紙まで急いで届けるよう命じられた。車から出る際には、銀貨を1枚もらったものだ。
 「サミュエル、地下鉄ではなくタクシーを使え。釣りは取っておいていい」
 「承知しました」
 「いい気になるなよ」
 この仕事は、わたしにとってはトップレベルの活動の場であり、1分1秒も無駄にはしなかった。ブリズベーンにはすっかり惚れ込んでしまった。いつまでこの人物の個人原稿運び係を務められるのかわからなかったけれども、彼がこれまでに雇ったなかで最高の原稿運び係になってやるつもりだった。リンカーンが走り去るや、わたしはタクシーを声高に呼んだ。矜持と決意をみなぎらせつつ車内へ飛び込むと、一言だけ口にした。「ジャーナルへ!」と。
 あの頃、ニューヨークのタクシー運転手にはそう言うだけで済んだのだ。ジャーナル紙がパーク・ロウにあることは、誰もが知っていた。ブリズベーンの秘書に急いで蝋管を届けると、彼女はタイプライターでボスの言葉を書き起こすべく、その蝋管を別のディクタフォンにすべり込ませた。わたしはその文章を急いでライノタイプに回した。そして校正刷りを走って編集部へ届ける。校正が施された。次いで印刷室へ戻って、別の校正刷りと最終校正を受け取る。これが『トゥデイ』、すなわちアーサー・ブリズベーンの有名な社説、国中に行き渡るあらゆるハースト系新聞に掲載されるコラムであった。
 真面目な性格であったのと同じぐらいに、ブリズベーンは茶目っ気たっぷりになることもあった。ある日ジャーナルを出たところの往来で、彼はブルックリン橋まで競走してわたしに勝つ方に25セント賭けた。ブリズベーンは書類かばんを携えていたから、そのぶん不利だったというのに。二人してパーク・ロウを走った。背の高い編集長と、ちびっ子の原稿運び係が。ちくしょう、まったく見ものだったに違いない! わたしは走り疲れてしまい、ブリズベーンが勝った。そこで彼に25セント渡したが、返されてしまった。それからブリズベーンは、"マックスズ・ビジー・ビー”にわたしを連れて行き、ハンバーガーとミルクシェイクをふるまってくれた。そこのハンバーガーは肉汁たっぷりで、4セントした。ミルクシェイクは7セントだ。卵つきで10セント。
 ある日ブリズベーンは、リヴァーサイドドライヴに位置するある住所を書き留め、わたしに手渡した。
 「今夜はここで過ごす」と彼。「サミュエル、準備できしだい校正刷りを持ってきてくれ」
 「かしこまりました」
 『トゥデイ』の校正刷りとウィンザー・マッケイの漫画を手にして、わたしはリヴァーサイドへ向け出発した。その場所は、ハーストが所有するマンハッタンの仮宿であることがわかった。ハドソン川を見渡せる、壮麗なアパートである。ブリズベーンはそこで定期的にハーストと会い、戦略会議を開いていたのだった。わたしはそのアパートの玄関に出てくる執事に校正刷りを届けたり、彼からディクタフォンの蝋管を受け取ったりしたものだ。
 いつものように、リヴァーサイドにあるハーストのアパートを訪れたときのこと。執事は、建物のなかでわたしを待たせるよう命じられていた。りっぱな長椅子と、書物がぎっしり詰まった堂々たる書棚つきの居間にいるように言われたのだった。わたしは大きな窓ガラスのそばに立ち、ハドソン川の向こうに崖がそそり立つジャージーの絶景を楽しんでいた。ブリズベーンが何人かの幹部と共に、オフィスから出てきた。幹部の一人に、傾いた眉ととても哀しげな目を持った、背が高く体格の良い男がいた。しゃべるとき、その男は小鳥のような音をたてた。その声は、かん高いけれども力弱い口笛のように聞こえたのだ。高価そうなダークスーツを除けば、彼には尊大なところはひとつもなかった。ウィリアム・ランドルフ・ハーストを初めて拝んだのが、このときだ。この男が世でいちばん力のある新聞出版人だなんて、とても信じられなかった。ハーストはでしゃばらないだけでなく、ほかの男たちと討議を続ける間、しょっちゅうブリズベーンの方を向いて「どう思う、アーサー?」と尋ねていた。
 ブリズベーンが当面の問題に関してハーストに助言したことは、例外なく最終決定として受諾された。わたしの目に映ったハーストは、いばりちらす専制的性格のチャールズ・フォスター・ケーンからはほど遠いものであった。チャールズ・フォスター・ケーンは、オーソン・ウェルズが自作映画『市民ケーン』(41)のために、ハーストの生涯に基づいて作り上げた人物だ。わたしのよく知っている時代における新聞界で生じていた主な"戦争”を、ウェルズの映画が強調するやり方は、おおいに気に入った。アーサー・ブリズベーンが中心的役割を果たしていた戦争である。
 ハーストは、父親が所有していたサンフランシスコ・エグザミナー紙を1887年に引き継ぎ、次いで1895年にニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収した。1896年、彼はイヴニング・ジャーナル紙を発刊し、扇情的な報道、カラー漫画、醜聞特集記事で発行部数を拡大し、別名"イエロー・ジャーナリズム”として知られた。そしてそのおかげで、ジョゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙との間で売れ行き戦争が勃発したのであった。ジャーナリズムの旧派と新派が繰り広げるすさまじい競合が、『市民ケーン』に欠くことのできないわき筋(サブプロット)だった。
 実際には、ブリズベーンの存在がハーストの有利に働いたのだ。ブリズベーンはワールド紙──ジャーナル紙より知的に優れている新聞──で編集主幹を務めていた。ハーストはジャーナル紙を、この世に存在するどの新聞よりもどぎつく、刺激的で、派手なものにするべく、莫大な金を投じた。だがもう一つ、必要な要素があった。ジャーナリズム界における最高の編集長である。1897年、ハーストはブリズベーンを説得し、ピューリツァーのもとを離れてジャーナル紙で勤務させることに成功した。



※後編へ続く