boidでは12月に、遠山純生さんの翻訳による映画監督サミュエル・フラーの自伝『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(原題”A Third Face:MyTale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”)を刊行予定です。そのイントロダクションとして、5回に渡ってその自叙伝の一部をboidマガジンの読者の方だけに先行公開しています。今回は、マサチューセッツ州ウースターで育った幼少期の思い出について書かれた第3章「母親っ子」を公開!

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著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生



第3章
母親っ子


 ウースターで、われわれ一家はモット・ストリートの聖十字架教会近くにある小さな家に住んでいた。思い出せる限り最も遠い過去の記憶の一つに、この聖十字架教会の鐘の音がある。わたしはひどい風邪をひき、高熱を出して寝込んでいた。すると、鐘が狂ったように鳴り始めた。通りからわめき声が聞こえてきた。寝室の窓を通して、家の外で雪が降っているのが見えた。活き活きと鳴りわたる鐘の音を聞くために、わたしは起き上がって窓を開けた。11月11日のことだ。通りに出た人たちが、"大戦(グレイト・ウォー)”の終結を叫んでいた。雪の降る外を見つめ、鐘の音を聞き、興奮してあわてふためく人々を目にして、戦争の何がそんなにすばらしい(グレイト)ってんだ、と不思議に思っていたことを覚えている。寝室に飛び込んできた母に尻をひどくたたかれると、すぐさまベッドに戻された。
 レベッカ・フラーは、何物をもそして何者をも恐れることのない短気な女であり、非凡な人間だった。いろいろな話をして聞かせ、ジョークを聞き、見知らぬ人と出会い、アイリッシュ・ウィスキーを飲むのが大好きだった。
 その最晩年まであだっぽかった彼女は、いつも首周りにひもに通した真珠を着けていた。母は最初に、そして最も熱狂的にわたしを支持してくれた人であった。わたしが7歳ぐらいの頃、彼女にプリマスへの遠足に連れて行かれた。プリマスロック[マサチューセッツ州プリマスにある岩。メイフラワー号のアメリカ到着記念史蹟]には、ここはイングランドからやって来たピルグリムファーザーズが1620年11月21日に上陸した地点であると説明する標識があった。母は標識から少し離れた海岸に立ち、プロヴィンスタウンに近いケープコッドの北端を指さした。ピルグリムファーザーズが実際に上陸したところだ。わたしはぎょっとした。どうして彼らは嘘をつく必要があったのだろう? なぜ実際に出来事が起こった場所に標識を立てることができなかったのか?
 到着記念日が祝われる限り、ピルグリムファーザーズが上陸した正確な地点がどこかなんてことには誰も注意を払わないのよ、と母は説明してくれた。けれどもわたしは気になったのだ、くそっ。その日に母とプリマスロックで交わした議論は、わが記憶に活き活きと焼きついた。幼い少年だった頃からずっと、わたしには真実を求める傾向があったし、いつだってほんものを探していたのだ。事実に対するこうした嗅覚は生涯を通じてわたしのなかに残り続け、おおいに役立ってくれた。
 ちくしょう、観光客の便宜をはかって歴史的標識を配置したおかげで目印が不正確に標識づけされたのがいつのことだったのか、いまだに気になって仕方がない。ベルギーのワーテルロー[1815年6月18日、ナポレオン1世が英国・プロイセン連合軍に大敗した地]を訪れた際、公式の案内標識付近で戦闘があった場所など一つもないことがわかった。戦闘は、まわりの畑にめぐらされている掘割でおこなわれたのである。英国、プロイセン、ロシア、オーストリアが一丸となった軍隊を守るための掘割さえなければ、ナポレオンはおそらく1815年6月18日のあの戦いに勝利していただろう。結局彼は敗北し、船でセントヘレナ島に流刑されることとなった。このいまいましい掘割は、ヨーロッパ史の流れにとって重要なものだったのだ。どうして実際に戦闘がおこなわれた場所を表示しないのか? 同様にセシル・B・デミルは、不正確な記念銘板が掲げられたハリウッド・アンド・ヴァインの一角でダスティン・ファーナム主演作『スコウ・マン』(31)を監督しなかった。デミルはあの映画を、近くの横町で作ったのだ。
 プリマスロックで過ごしたあの日は、重要だった。というのも、あの日のおかげで母は悟ったのだ。彼女に向かって異論を唱えるほどまでに、息子は自分の頭で考えることができるようになったのだということを。母は賢明にも、わたしが自分の意見をはっきり言うよう奨励してくれた。あの日、母とは激論を交わしたわけではないけれども、それ以上に興味深い対話をしたわけだ。以来ずっと、示唆に富む会話をするために、相手に反駁することを好んできた。逆にいえば、わたしが言うことすべてに同意する人間ほど退屈なものはない。後生だから、わたしの言葉を軽々しく承認する代わりに自分の考えを口に出してくれ!
 父のことは、黒い髪と青い目をした、背が高くハンサムで寡黙な男だったと記憶している。ベンジャミン・フラーはカナダから材木を運んであらゆる紙製品──壁紙、トイレットペーパー、包装紙、新聞印刷用紙──を製造する工場で長時間働いていた。彼はただ、食べて眠るだけのために帰宅していた。父が息子と一緒に何かする時間を作れないことに対し、わたしはずっと何か騙されたような思いを抱いていた。二人で釣りをしに行ったことだって、一度たりともないのだ。
 父は厳格なユダヤ教の戒律を守ることを切望していたけれども、母は子どもたちをそんな風には育てなかった。彼女はどんな宗教であれ、正統信仰主義の行き過ぎには猛烈に反対していたのだ。そんなことをすれば、アメリカ──国民が突出してしまうのでなく、溶け込むことになっている国──の住人たるわれわれにとって、不利になると考えていたのだった。パパは譲歩し、地元のシナゴーグに家族を連れて行くことはめったになかった。フラー家の子どもたちには、宗教教育というほどのものを受けた者が一人もいなかった。
 ベンジャミンは51歳で亡くなった。わたしが11歳だったときのことだ。父の死に打ちのめされた記憶はない。とはいえ、彼がいなくなったことで父親の支えを失い、心のなかにとてつもない空白が生まれたに違いない。生涯を通じてわたしは父親のような人物を探し求め、幸運にもそうした人々と出会うことができた。そして本能的に彼らに惹きつけられ、その知恵を吸収しながら育つことになったのだ。
 子どもの頃から、ウースターにあるポーリ・シアターへ行くのが大好きだった。街でいちばん大きな映画館だ。土曜日の朝がやってくるのが待ちきれなかった。土曜の朝になれば、昼興行(マチネー)の入場券を買うための5セント白銅貨(ニッケル)を握りしめ、ほかの子どもたちと一緒にポーリの前で列に並んで開場を待ち、ウィリアム・S・ハート、ケン・メイナード、ジャック・ホクシー、バック・ジョーンズ、そして偉大なるトム・ミックス主演の血わき肉おどる無声西部劇映画を観ようと場内へと走り込んで席を確保することができたからだ。彼ら西部劇俳優は、いつも連続活劇(シリアル)でパール・ホワイト、エディー・ポロ、あるいはディック・タルマッジと共演していた。各挿話は、毎回苦況に陥ったヒロインの姿──たとえば、後ろ手に縛られてジャングルの地面に横たわっているとか──で幕となる。巨大なコブラが、怯える娘に向かって身をくねらせ滑るように進んでいったものである。蛇が彼女に近づいたところで、スクリーンは溶暗。連続活劇は、まじりけなしのハリウッド的娯楽の黎明であった。そして、イソップやグリム兄弟やハンス・クリスチャン・アンデルセンの寓話が前世代の人々を感動させたのと同じやり方でわれわれの心をつかむ、ストーリーテリングに対する一種おとぎ話的なアプローチの黎明でもあったわけだ。あの頃、どんなことがあろうと自分がポーリでおこなわれる次の土曜の昼興行にも行くことだけはわかっていた。
 ポーリでは、ドイツやフランスの無声映画を観たことも覚えている。わが人生に多大な影響を与えることになる二つの国と、初めて接触したのがこのときだった。上映された映画のなかには、ヴィクトル・ユーゴーの古典小説を翻案し、偉大なるコンラート・ファイトが主演したパウル・レニ監督作『笑う男』(28)があった。シェイクスピアの『ヘンリー四世』を翻案した『フォルスタッフ』のフランス版無声映画や、ベン・ジョンソンが17世紀に書いた戯曲を翻案した『ヴォルポーネ』を観たことも、ぼんやりと思い出せる。高潮したドラマにうっとりさせられたことを覚えている。
 思い出せる限りで初めて読んだ本は、母からもらった『紳士ジョン・ハリファックス』という題の子ども向けパルプ小説[訳注]だった。作者はダイナ・マリア・ミューロック・クレイク(1826年~1887年)──あるいは、彼女が自著に署名したのに倣えば"ミス・ミューロック”だ。それからほぼ80年が経過した今でも、『紳士ジョン・ハリファックス』の最初の一文を思い出すと微笑んでしまう。車椅子に乗った男によって語られる一文で、浮浪者と出くわした彼が、「そこをどけ、ごろつきめ、フィニアス・フレッチャーの通り道からどくんだ!」と叫びながらステッキでその哀れな男を威嚇するのだ。
 なんという書き出しだろう! 大事なのはいつだって冒頭なのだ。あまりに数多くのフィクション作品が、退屈かつ知的な前置きや不要な説明で始まる。早くからわたしは、スリリングなできごとが連続するアクション場面の多いオープニングを大いに好んでいた。いまだにそうだ。アクションが登場人物の感情(エモーション)をめぐって、なにか本質的なことをわれわれに語りかけてくれるならば。
 兄のヴィングと同じく、わたしは子どもの頃に絵を描くこつをつかんだ。ヴィングの方がずっと巧かったけれども、わたしは自分の手でばかげた漫画を描くのが大好きだった。わたしが新聞好きになったのは、それがきっかけだ。地元発行のウースター・テレグラム紙とウースター・ポスト紙が、毎号漫画を掲載していた。ボストン・アメリカン紙は、日曜版では漫画をカラー掲載した。わたしは日曜の朝、ウースターの街角に立って通行人にそうした新聞紙を売り、家族のためにいくぶんか小銭稼ぎをした。たいていみんな、新聞をひっつかむと、釣りは取っておけと言いながら25セント玉をわたしに投げ与えたものだった。日曜朝のウースターの街角をどれほど待ち焦がれたことか! 稼いだ金は全部家に持ち帰って、母に手渡した。彼女はわたしのことをたいそう誇りに思っていた。
 レベッカの揺るぎない愛のおかげで、子どものわたしは大いに自信を持つことができた。彼女は熱烈にわたしのことを支持してくれた。野心が自分の能力を凌駕してしまっていた場合であっても。野球を例に取ろう。試合に加わりたくてたまらなかったけれども身体が小さすぎて、わが家から通りを隔てたところにある広大な空き地で年長の少年たちと一緒にプレイすることはできなかった。そこで母は野球の試合が終わるまで待ち、選手たちを招いて手製のブルーベリーパイをふるまったのだ。パイは午後の間中、彼らの嗅覚をくすぐった。わたしが兄たちと一緒にウースター中の森を回り、白目製のバケツに集めたブルーベリーを使って焼き上げたパイだ。ブルーベリーパイがオーヴンから出てくると、このうえなく馥郁たる香りがわが家から漂ってきた。わが家の窓台の上で冷めたあのブルーベリーパイの香気を、今でも嗅ぐことができる。
 母のパイのおかげで、わたしは野球選手たちの大変な人気者となった。見物人から飲み水供給係へと昇格されたのだ。
 「サミー! 水だ!」と誰かが叫んだものだ。わたしがあふれんばかりの水をたたえたバケツをベンチへ運ぶと、その選手は大きな木製スプーンを使って何杯もゴクゴクと飲んだ。試合後は、何人かの選手と一緒に通りを歩いて渡った。ついて来てくれたのはわたしを安全に家に送り届けるためではなく、母が台所の窓から喜んで供してくれるブルーベリーパイのひと切れをまた期待してのことだったのだが。
 そういう次第で、野球のやり方を学ぶチャンスを手に入れたわけだ。そして、内野手としても外野手としても、かなり上手くなった。わたしは左利き(サウスポー)だったので、"レフティ”と呼ばれた。わがヒーローは、カール・メイズであった。わたしにとって、メイズはベイブ・ルースより偉大な野球選手だったのだ。
 数十年後、出生証明書の写しが必要になって、ウースター当局に手紙を書いた。わたしは特別な人間だと思われてしまったようだ。というのも、わたしのことを書いた記事がウースター・テレグラム紙の第1面を飾ったからである。子どものころのわたしが、路上で売っていた新聞だ。この新聞がまだ刊行されていたので、嬉しかった。記事の切り抜きと一緒に、テレグラム紙の編集者は街が何から何まで変わってしまった旨を説明したメモを送ってくれた。
 1963年に、『ショック集団』の公開初日に合わせてボストンへ行った。セントラル・マサチューセッツのわが郷里を再訪するのは、簡単だっただろう。確かにそうしたい誘惑に駆られた。けれどもかつてのウースターの子どもは、急速に成長したのだ。その頃までにわたしは、懐旧の情に溺れることになど耐えられない、ドライな中年男になっていたのだった。少年から中年になるまでの間に流れた歳月の記憶に苦しんでいたわたしは、ウースターに迂回することはなかった。われわれの内部に生きている子どもは、心の眼のなかに幼少年時代の映像を深くとどめている。1923年にわが一家が引っ越したときのまま、街を記憶しておきたかったのだ。かの地には二度と戻らないようにして。
 その年に父が死んだことが、わが運命を含めてすべてを一変させてしまった。今や父親のいない7人の子どもを抱えたレベッカは、われわれ子どもたちをニューヨーク市──より良い人生を送る好機をもっとつかみやすい地──に移住させようと決意したのだった。あの重大な日、われわれは包みやらスーツケースやらトランクを携えて、マンハッタン行きの列車に乗り込んだ。列車が出る際に、わたしはウースターおよびわが幼少期に別れを告げつつ、野球仲間数人に手を振ってさよならした。


訳注:『ジヨン・ハリフアックス』(中村千代子訳、春秋社)、『ジョン・ハリファックス:愛と眞實』(永代美知代訳、誠文堂)、『理想の青年ジョン・ハリファックス』(山崎直三訳、尚文堂)ほか、数種類の邦訳がある。





サミュエル・フラー Samuel FULLER
1912年8月12日、マサチューセッツ州ウースター生まれ。本名はSamuel Michael Fuller。新聞記者、小説家、映画脚本家などを経て、1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。ジャーナリスティックな感性や第二次大戦従軍経験を活かし、常に脚本も兼任した監督作がとりわけフランスを中心に高く評価された。代表作に、『鬼軍曹ザック』(51)、『東京暗黒街・竹の家』(55)、『四十挺の拳銃』(57)、『ショック集団』(63)、『裸のキッス』(64)、『最前線物語』(80)、『ホワイト・ドッグ』(82)、『ストリート・オブ・ノーリターン』(89)などがある。パルプ小説的物語に、強烈な暴力描写・登場人物の心理探究・社会的不正に対する抗議を織り込んだ独特の低予算娯楽作品を数多く手がけている。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、65)、『ラストムービー』(デニス・ホッパー、71)、『アメリカの友人』(ヴィム・ヴェンダース、77)、『1941』(スティーヴン・スピルバーグ、79)など、俳優としての仕事も多い。1997年10月30日死去。


遠山純生(とおやま・すみお)
1969年愛知県生まれ。映画評論家・編集者。代表的な編著作に『紀伊國屋映画叢書① イエジー・スコリモフスキ』『紀伊國屋映画叢書③ ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(以上、紀伊國屋書店)、『ロバート・オルドリッチ読本①』『マイケル・チミノ読本』『イエジー・スコリモフスキ読本』(以上、boid)などがある。また翻訳書に『私のハリウッド交友録』(ピーター・ボグダノヴィッチ著、エスクァイア マガジン ジャパン)、『ティム・バートン』(マーク・ソールズベリー編、フィルムアート社)、『ジョン・カサヴェテスは語る』(レイ・カーニー編、幻冬舎/都筑はじめとの共訳)など。自身のHP『mozi』にて、映画をめぐる諸論考を発表。