
文=降矢聡
「地図を読むように全体を俯瞰して見る。そうすれば人生は上手く乗り切ることができるんだ」
広大な空の下、穏やかな海を進むクルーザーの上で一人の男が少年にそう語りかけているのが響く。余裕と自信に満ちた口ぶりで話す男が一体誰なのかは、この時点ではわからない。キャメラは男の、そして少年の顔を映し出すことはなく、あくまで茫洋たる海と空を映し出しているからだ。「地図を読む」という言葉とは裏腹にこのクルーザー、そして男たちはなにを目的(地)としているのだろうか。明確な指針を欠いたまま、キャメラはクルーザーから遠ざかり、男たちを乗せたクルーザーはゆっくりと我々の視界の外へと消えていく。
映画の慣例(というものがあったらの話だが)に従えば、その男は本作の主人公、ケイシー・アフレック演じるリー・チャンドラーであることは何となしに了解させられ、それは間違いないだろう。しかし、自分のことを「無人島に連れて行けばそこを楽園に変えることができる男」とも称するクルーザーの男に対して、翳りを帯びて、くぐもった声でボソボソと話し、愛想がないと多くの顧客からクレームを受けている便利屋として働く男の姿を見ると、二人は果たして本当に同一人物なのかと疑問が浮かぶこともまた確かなことである。
というのも、ケイシー・アフレックの決して短くはないキャリアを振り返えると、例えば『GERRY ジェリー』のように、彼は地図を読み間違える男であり、『セインツ-約束の果て-』のように、諭される側の役どころで、その諭される事柄が正当であればあるほど、自分の間違いを痛感し、疲弊しながらも、どうしても自らの楽園を目指して突き進んでしまう悲痛さを身にまとっている印象を与えるからである。もちろん本作の物語を追ってみれば、ある不慮の事故によって人生が一変してしまった男の、過去(クルーザーの男)と現在(便利屋の男)が描き分け分けられているというだけのことではあるのだが、今までの彼のキャリアを鑑みると、冒頭のクルーザーの男は、今までの彼とは真逆でありながらも(ゆえに)、もしかしたらあり得たかもしれないもう一人のケイシー・アフレックのようにも見える。冒頭のシーンは、映画の筋書き以上に、一人の俳優の今までを静かに優しく包み込むようではないか、と今改めて本作について考えを巡らすと思えてくるのだ。しかしこの映画の特質は、個人(ケイシー・アフレックという俳優)に帰されるものではない。むしろ誰のものでもある物語として、本作のあらゆる場面は演出されているだろう。
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