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2017年06月号 vol.4

映画川特別編 「清原惟レトロスペクティブ」 (三浦哲哉)

2017年06月30日 22:36 by boid
2017年06月30日 22:36 by boid
いつも公開中および近日公開作品の映画評を掲載している「映画川」ですが、今回は特別編としてひとりの新人監督の作品を紹介します。彼女の名前は清原惟。昨年度まで東京藝術大学大学院映像研究科に在籍する学生だった彼女ですが、その修了作品として監督した『わたしたちの家』が修了作品展(@渋谷ユーロスペース、3月)で上映された際に話題となり、この6月にはぴあフィルムフェスティバル入選作『暁の石』(14年、飛田みちる共同監督)『ひとつのバガテル』(15年)を含む全監督作の上映イベントが開催されるなど、まだ商業映画デビューを果たしていない新人監督としては異例の注目を集めています。清原監督の登場がこれほど注目を集めているのは何故なのか。映画批評家の三浦哲哉さんが『わたしたちの家』を中心に考察したこの〝作家論”によって、その理由が明かされていきます。
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『わたしたちの家』



文=三浦哲哉


 6月4日に三鷹のSCOOLで、清原惟の「早すぎるレトロスペクティブ」と銘打たれた全作上映イベントが開催された。SCOOLは、佐々木敦が率いるHEADZと吾妻橋ダンスクロッシングがプロデュースするイベントスペース。この日は満員の観客の熱気に包まれた。
 トークゲストに呼んでいただいたので、この機会に全作品を見ることができたが、率直に言って非常に面白く、その巧さに唸らされる瞬間が多々あった。それも、ただ面白くて巧いとうだけではない。面白いとか巧いというだけでも貴重なことだが、今回はそれにとどまらず、新しい作り手が「デビュー」したという鮮烈な感動を呼び起こした点で、稀有なイベントだったと思う。というわけで、その感動から出発して、いわば「早すぎる」清原惟試論を書いてみたいと考えた。まだ多くの方が未見だと思うが、近い将来、広く見返されるときが来るだろうと期待する。

 本プログラムでは、飛田みちるとの共同監督作品『暁の石』(2014)、『ひとつのバガテル』(武蔵野美術大学卒業制作・2015)、『わたしたちの家』(東京芸術大学卒業制作・2017)という3つの中・長篇に、10〜15分程度の短篇──『しじゅうご円』(2015)、『音日記』(2016)、『火星の日』(2017)、『波』(2017)がそれぞれ組み合わされた。
 清原惟は1992年生まれの25歳。『わたしたちの家』や『しじゅうご円』などのシナリオを担当した加藤法子、『ひとつのバガテル』、『火星の日』、『波』の主演女優を務めた青木悠里(ちなみに『わたしたちの家』では衣装を担当している)たち──いわば清原組のメンバーも同世代である。

 清原監督作の中心的なテーマをまず簡潔に、「少女たちの遊び」と言い表せるように思う。ほぼすべての作品は、一見すると、暇を持て余した少女たちが無聊を慰めるべく、なにやら目的をもたない「遊び」に興じている──そんな無意味な光景に充たされているように思われるかもしれない。しかし、これから縷縷述べていくことだが、清原作品において「遊び」──「演奏」や「ゲーム」や「冗談」等々──は、そこから異空間が呼び込まれるきっかけである。これは本当に不思議で、いったいどうしてこのようなことが起きるのか謎である。まさに魔法の儀式のようでさえある。だからこの「少女たちの遊び」は、習作ゆえの「緩さ」とか「脱力」などとは混同されるべきものではない。
 最新長編にして現時点での代表作と言ってよい『わたしたちの家』について見てみよう。その冒頭、白い衣装を着た四人組の少女が薄暗い畳の一室で、80年代フレンチポップ風の音楽に合わせ、くるくると周りながら踊っている。すると、そのうちの一人がふと踊るのをやめて、フレームの外側をしげしげと見つめ、神妙な顔でつぶやく──「なにかいま物音がしなかった?」。そして実際、後から理解されることだが、彼女たちが踊っていたあの空間には、幽霊めいた何ものかが呼び寄せられていたのだった。
 清原の作品世界において「少女たちの遊び」は、印象的な音楽のフレーズや、ダンスの動作の繰り返しをともない、そして多くの場合、彼女たちを取り囲んでいる時代錯誤のアナログ機器の回転運動などと共振する。こっくりさんこっくりさん、とか、エロイムエッサイムエロイムエッサイム、とか、テクマクマヤコンテクマクマヤコンというような定形の文句を持つのではなく、もっと自然発生的、融通無碍に「遊び」はわき出てくるのであるが、ともあれ、それら呪文にも近い効果として、ある種の結界のようなものが出現するような感覚に、観客は囚われることになる。

 少女たちを取り囲むのは、すこし退屈ですこし息苦しく、すこし不穏でもある「日常」の時空間である。少女たちは決まって、「飽きた」、「退屈だ」と言い、定職にはまだつかず、宙ぶらりんの、いわば凪の時間を過ごしている。少女たちが(より少ない例だが少年たちでもよい)集まると、ふと儀式めいた遊びが生まれ、それをきっかけに、日常とは異質な何かの影が差し込むだろう。それは彼女たちを救済するものだろうか。自由を得させるものだろうか。あるいは逆に、ひっそりと進行していた悪の陰謀がそこからあきらかになるのか。それはわからない。そもそも、その異質な何かは、幻影にすぎないのかもしれない。ただ確実なのは、それが一時、日常の自明性を根底から揺さぶり、彼女たちを退屈から解放するということだ。
 清原はこのプロセスをとりわけ「部屋」という閉鎖空間との関わりにおいて造形し、いわばそのヴァリエーションを、スタッフたちとともにアイディア豊かに発表してきたのだと言えるかもしれない。要するに、部屋があり、暇な少女がいて、呪文めいた言葉や音楽のフレーズが反復され、しばしばアナログ機器の円運動とともに、その閉域に不可思議なものの気配が吹き抜ける(ちなみに呪文めいた言葉を書くのは、脚本の加藤法子の得意分野なのだそうだ)。
 今回プログラムされた作品には、自主制作映画ゆえのさまざまな制約が明白にある。二、三人の大人をのぞけば基本的には少年少女の役者しか出てこず、非日常的空間を大掛かりに視覚化することもほぼできない(また逆に、自主映画がそこに活路を求めがちな内面のドラマが展開するわけでもない)。けれどもあらゆる画面が魅惑的に活気づいている、あるいは、ざわざわとした不穏な気配を漲らせているのは、以上述べた造形的操作の効果であるだろう。

『ひとつのバガテル』 (※動画ポータルサイト「青山シアター」でレンタル視聴可能)


 『ひとつのバガテル』について見てみよう。この作品の中心となるのは、青木悠里が演じるヒロインの暮らす部屋である。ピアノを弾かせてもらえるからという理由でここを間借りしているらしいのだが、同居する家主のおばさんが何かと干渉してくる。青木は、ピアノのフレーズを繰り返し弾くことによって、また、その部屋に隠されていた秘密の呪文や暗号を唱えることによって、その半-監禁された部屋に孔を穿ち、そこに居ながらにしてまったく別の空間を垣間見るだろう。
 『火星の日』はもっと大胆かつシンプルな設定なのだが、部屋でごろごろしながら過ごす青木が明日、火星に引っ越すという予定で、つぎつぎと玄関口にやってくる客と別れの言葉を交わすというもの。そこらにいくらでもある、すこしレトロなアパートの一室が、しかし、だんだんと宇宙船めいた空間に感じられてくるから不思議だ。主演女優を演じる青木悠里のなんともつかみ所のない魅力ゆえのことでもあるだろう。『ひとつのバガテル』では、チャンピオンのスウェットに、薄手のチェックのパンツというあっさりした格好をして、前髪は下ろし、一語一語を呑み込むように、ゆっくりと言葉を発する。人にこう見られたい、と想定して振る舞う自意識や媚びが根本的に欠落しているようで、ただ営巣本能を持った小動物のように見えるときもある。希有な被写体だと思う。
 『わたしたちの家』は、ひとつの居住空間がまったく別の場所へ通底してしまうという、清原監督作品で一貫して追求されてきたテーマの最初のピークを示す作品だ。冒頭から、ある浜辺の街で、父を亡くした少女とその母の生活が描かれる。ところがその途中から、パラレルワールドと言うのか、まったく別の物語が導入され、しかもその二つの物語が並行状態を保ったまま、同じ家で展開されていく。両者は独立しているようにも思われるが、しかし、かすかな気配が伝わりはじめる。
 こちらとあちらを隔てる「境界」に関わる造形が繊細だ。ロケーションに用いられたこの家はもともとタバコ屋だったそうで、出入り口にはシャッターがあり、空けるたびにガラガラという音を響かせる。ほとんど古民家といった佇まいの家屋のふすま、階段は豊かな闇を抱えていて、そこから「あちら側」の気配が漏れ出てくる。必要最小限のものしか用意されていないにもかかわらず、最大限の機能が引き出されている。

 作り手たちが過去のさまざまな名作を参照していることは、たとえば『わたしたちの家』のファーストシーンからも推察できる。薄明のなか、少女たちが80年代フレンチポップで踊り、霊感的なセリフを言うとすれば、最近リバイバル上映されて話題にもなったロメールの『レネットとミラベル/四つの冒険』を思い出さないわけにはいかないだろう。また、『わたしたちの家』で、記憶喪失の女性(大沢まりを)が薄闇のなかで登場する船上の一場面は、『マルホランド・ドライブ』を想起させた。こちらは後から監督にお聞きしたところ、ある程度、意識していたそうだ。しかし、だとしても、これらの場面がすばらしいことに変わりはないし、とくに後者の鮮やかさには脱帽した。
 まず、浜辺の街で、海を眺めるようにして暮らす少女たちの日々が描かれたあと、唐突に、海上からの視点で、海岸沿いの街の夜景を捉えたショットが挿入される。海から街を眺めている何者ともわからない誰かの気配を感じ取らずにいられない、ぞっとするようなタイミングの切り替わり方なのだ。それにつづいて、船上の客室に座りながら眠っている女性の寝顔が写される。薄暗い空間のなかで、蛍光灯の光が、あたかも女性の化粧だけを浮き彫りにしているかのような、これも異様な力を持ったショットだ。カメラが引くと、客室には、不自然なことに、ほかの乗客が誰一人おらず、彼女が何らかの理由で取り残されてしまったことが察せられる。だが、どこから? なぜ? このような疑問を観客にやつぎばやに生じさせながら、ショットはつぎつぎに畳み掛けられていく。この場面が終わるころ、この女性が記憶喪失に陥っており、彼女自身もどこから来たのかがわからないということを私たち観客はようやく情報として知るのだが、しかし、理解するというだけでなく、心底から彼女の「さ迷い」に同調してしまっている。そのことが驚くべきことだ。
 アイデンティティを奪われた「顔」を含む謎めいた兆候が次々と現れては、観客の認知の座標軸そのものを麻痺させるこの呼吸には、やはりデヴィッド・リンチに通じるところがあると私は思う。ちなみに、私の考えでは、リンチはミステリー(謎解き)の人ではなく(そうなっているときは失敗作になってしまう)、徴候(謎のきっかけ)だけを純粋な「顔」として、あるいは出口なき「開口部」として示すことに賭けた作り手だ。『わたしたちの家』におけるこの女性の顔は、最良のリンチの水準に達していたと思うが、どうだろう。それから、良いときのリンチ同様、謎は解決が与えられないときこそ最大の強度に達するという考えを清原が引き継いでいることを指摘しておきたい。

 清原監督はデヴィッド・リンチのほかに、清水宏とジャック・リヴェットを愛好していると語っている。けれど、その作品には、映画マニア向けの目配せのたぐいはほとんど皆無であると言ってよい。どの作品を意識しているかが何となく観客にわかるということはあっても、予備知識としてそれらを知っていなければ楽しめないということではまったくない。つまり、いわゆるシネフィル監督の作品にどうしても漂ってしまう息苦しさがない。いや、息苦しくなってしまう可能性はつねにあっただろうが、結果として、そこから免れている。それはなぜか。
 清原監督が、リンチや清水やリヴェットから受け継いだものが、表面的なテクニックとか、いかにも署名を持っていそうなスタイルではなく、「閉鎖空間に孔を穿つ」とはどういうことかという根本的な問いだったからではないだろうか。清水における「子どもたちの遊び」や、リヴェットにおける魔法陣とか陰謀のサインといったアイディアへ清原が惹かれるのは、真似するためではなく、彼女自身が「現在」の閉域から逃れるための指針を得るためだったのではないか、などと想像する。少女たちは軽やかに遊び、一旦、自室に閉じこもり、呪文めいたフレーズを唱えては、「いまここ」に孔をあける。あるいは、すでに空いているにもかかわらず誰もまだ見ようとしなかった「孔」を再発見してみせる。
 清原惟の登場が、新しい作り手の「デビュー」に立ち合ったという興奮を伴うものだと冒頭で言ったのは、つまりそういう意味においてだ。相対的に目新しい何かをやっているということではないし、「リミックス」のセンスが斬新だということでもない。すでに映画には、あれもあり、これもある。何を撮っても二番煎じに見えてしまうし、出来合いの意味がすでに貼り付いているように感じられる──清原作品は、そのような閉塞からさえもやすやすと逃れて、心地よい凪の空間を囲ったり、誰もまだ見たことのない別の空間の気配を招き入れるすべを知っている。この監督は、埋もれてしまうことのない空間を、するすると作り出してしまうにちがいない。
 今後の方針として清原監督が、一般の劇場で広く公開されるたぐいのジャンル映画を撮りたいと語っていたことも印象的だった。一見して普通の映画でありながら、同時に、変な何かでもある、それが一番面白いでしょう、と清原は付け加えた。まさにそういう作品を今後、撮ってしまいそうだと思う。


わたしたちの家
2017年 / 日本 / 80分 / 監督・脚本:清原惟 / 脚本:加藤法子 / 出演:河西和香、安野由記子、大沢まりを他
東京藝大大学院映像研究科映画専攻第11期修了制作作品







三浦哲哉(みうら・てつや)
映画批評家。青山学院大学文学部准教授。Image.Fukushima実行委員会代表。主な著書に『サスペンス映画史』(みすず書房)、『映画とは何か: フランス映画思想史』(筑摩選書)、訳書に『ジム・ジャームッシュ・インタビューズ』(東邦出版)。月刊「みすず」(みすず書房)で「食べたくなる本」を連載開始。

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