
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」。前回からは1969年製作、1970年に公開された長編第三作『悪の神々』について取り上げています。今回は処女長編『愛は死より冷酷』に次ぐギャング映画第2弾である本作について、"影のコメント役”にもなっている使用歌曲を主軸に詳しく迫っていきます。
文=明石政紀
ファスビンダーのギャング映画三部作、其の二
『悪の神々 Götter der Pest』(其の二)
前回の原稿は、途中でちょん切れてしまった。というわけで、その続き。
ファスビンダーの「本格的シネマ」の試みとしての『悪の神々』
この『悪の神々』は、白く凍てつき無愛想に突き放した『愛は死より冷酷』と『出稼ぎ野郎』のファスビンダー最初の長編2作から一転、本人が望んでいたような「本格的シネマ」を目指した映画と言っていいかもしれない。
ファスビンダーもこう言っている。
「ぼくらがちょっとばかり袋小路に陥ってしまったのは、わかってたんだ。いや、袋小路っていうのは、間違った言い方だな。わき道にそれてしまったんだよ。芸術的な意味合いでわき道にそれてしまって、ぼくはどうしてもそこに入り込みたくなかったんだ。それで考えてみたんだけど、『悪の神々』みたいな映画は、それ自体すごく美しい物語だし、そのときには自分の考えをどう具体化させるかっていうこともわかるようになっていたから、大映画館、ほかの街の他でも上映できるんじゃないかと思った(・・・)」[*1]
そしてこの映画、これまでになく登場人物の多い映画であり、これまでになく多彩にカメラワークが用いられる映画であり、これまでになく音楽がふんだんに盛り込まれている映画であり[*2]、これまでになく美術が効果を発揮する映画であり[*3]、これまでになく編集の力を感じさせる映画であり[*4]、ところどころ顔を出す既成曲が影のコメント役となる映画であり、言葉少なげな言葉の間(ま)が生きる映画であり、意味ありげな視線が交差する映画である。
というわけでこの映画、それぞれの側面から見ていくことができるのだが、すべてについてあれこれ記していくと、それだけで一冊本ができあがってしまいそうだ。映画というのは、そういうものかもしれないが、紙面の関係上のどれかに決めなくはならない。どれにしよう、と迷いに迷っていると、わが家のエンサイクロペディア・キャット、ミケの声が聞こえた。
「いつまで迷ってるのよ! そのどうでもいい迷いのせいで締め切り過ぎちゃったじゃない。これじゃ締め切りを延ばしてくれた編集部の黒岩さんに申し訳ないわ」
「どうすればいいんだ?」
「あれしかないわよ」
「やっぱり、あれしかないか」
あれというのは、必殺チャンス・オペレーションのことである。こうして、この偶然性選択手法を導入、サイコロを転がした結果、各所で顔を出す既成曲の影のコメントに重きを置くことに急遽決定、それに従って先を進めることにしよう。たぶんこういうアプローチ、この映画についてはなかっただろうし・・・。
とはいえ、こうした含意がわからなかったとしても、この映画は十分楽しめるし、あまり重要なことではないかもしれないが、とりあえずそうしてみよう。
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