
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」。其の十三は、1969年のミヒャエル・フェングラーとの共同監督作『何故R氏は発作的に人を殺したか?』について。共同監督とはいっても、ファスビンダーは撮影現場にもほとんど顔を出さず、実質はフェングラーが監督したという本作について、そうした製作背景やミヒャエル・フェングラーの経歴を踏まえて取り上げます。本連載のご意見番・ミケに続き、新たなキャラクターも登場!
文=明石政紀
ミヒャエル・フェングラーとの共作、其の一
『何故R氏は発作的に人を殺したか? Warum läuft Herr R. Amok?』(1969)
ファスビンダー映画とされながらもファスビンダー映画にあらざる『何故R氏は発作的に人を殺したか?』
この『何故R氏は発作的に人を殺したか?』、ファスビンダー映画とされている。
でもこの映画を観たときから、どうもおかしいと思っていた。こりゃどうもおかしい。共作という触れ込みながらも、これは本当にファスビンダーのつくったものなんだろうかと思っていた。
たしかに出演者のほとんどはファスビンダー映画のお馴染みの顔ぶれだ。日常のなかで主人公が自分の心の居場所をなくしてしまうという題材も、たしかにファスビンダーらしい。だから上っ面だけ見れば、ファスビンダー映画っぽく見えるかもしれない。
でも、どこかがおかしい。どこかが違う。
どこが違うかと言うと、つくり方が違う。
この映画、あまりに実録調で、日常の現実をそのまま模写したような感じなのだ。かたやファスビンダーは、映画をあたかも現実のごとく見せつけてくる「リアリズムの嘘」を大いに嫌っていた人で、映画という作り物が「作り物」であることをちゃんと見せてくる、いわば「健全な」監督だった。本人も、「映画が(…)作為的で、演出されきっていて、仕上げられていればいるほど、映画は自由で解放される」と言っているし[*1]、わたしもそう思う。
ところがこの映画、作為的でも演出されきってもいない。語られる言葉も日常会話を垂れ流しにしたようなもので、いつもの作為性はないし、映像にも演出というものが感じられない。こういう映画を「作り物」ならではの真実を求めたファスビンダーがつくるとはとても思えない。
つくり方の問題とは、映画や登場人物に対する態度の問題でもある。ファスビンダー映画は、どんないい奴を描こうが、どんな嫌な奴を描こうが、そこには登場人物とそれに扮する役者に対する愛でも嫌悪でもなんでもいいが、個人的な態度や視線や距離が感じられるものだった。そしてそれが個人的であるがゆえに普遍的なものとなり、リアルさを異化するがためにリアルなものになるというファスビンダー映画の逆説的特徴が、この『R氏』では感じられないのだ。だからここではお馴染みの役者の多くが、ほかのファスビンダー映画とは違って見える。
映像も同じことで、ほかの映画では登場人物に対するファスビンダーの視線を示すアングルや構図が決め込まれていた。ところがこの映画の画面ときたら、手持ちカメラによるぐらぐら揺れる態度未決定の記録映像的な撮り方で、こんなことファスビンダー映画ではなかったことだ。
というわけで、つくり方、つまりそこにつぎ込まれる態度や視線や距離や愛情や嫌悪やその他もろもろ、そういうもののなかにファスビンダー映画がファスビンダー映画である所以があると思っていたわたしには、どうしてもこれがこの人の作品とはとても思えなかったのだ。
これは実験だったんだろうか?
どうもそのようである。
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