boidマガジン

2018年06月号

ファスビンダーの映画世界、其の十五 (明石政紀)

2018年06月05日 03:05 by boid


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」が久しぶりの登場です。連載第15回目となる今回は、1970年製作の『ホワイティ』を取り上げます。ウェスタンの意匠を纏わせ、黒人俳優ギュンター・カウフマンを主演に据え、さらに撮影監督のミヒャエル・バルハウスと初めて組んだ作品でもある本作でファスビンダーが描いた世界とは――



文=明石政紀


『ホワイティ Whity』(1970)


『WHY TEA ?』、または『ホワイティ』

 今の去る2万時間ほどまえ、神戸に赴く道すがら、大阪駅付近の「ホワイティうめだ」なる地下街を無意味に徘徊し、コーヒーでも溜飲しようかとカフェに入ったのだが、どういうわけだかティーを注文してしまった。常習コーヒー摂取者のわたしが、なぜティーを注文してしまったのか自分でも解せず、この疑問を「WHY TEA?」と生半可な英語で自分に投げかけてみたところ、ようやく、「ホワイティ」に関する文章を書かなければならないのにまだ何も手をつけてないという心理的抑圧が、この不可解な注文によって婉曲的に表現の場を見出したことが判明した。
 とはいっても、ここで言う「ホワイティ」とは、もちろん地下街「ホワイティうめだ」のことではなく、かのジョニー・デップが、とある映画で演じたボストン暗黒街のボス、「ホワイティ」・バルジャーのことでもなく、ファスビンダーの映画『ホワイティ』のことである。
 『ホワイティ』は、ファスビンダー唯一のウェスタンである。それも本人のジャンル・シネマ的欲望が増大したのか、マカロニ・ウェスタンの撮影地として名高いスペインのアルメリアまで出かけて撮ってしまった色彩シネマスコープ西部劇である。
 ウェスタンとはいっても、ここでは早撃ちガンマンも決闘も、手に汗握るアクションも雄大な大自然も、騎兵隊もインディアンもメキシコ革命も出てこない。大体そんなものをファスビンダーに期待するほうが間違っている。主要な舞台は、ある狂った農園主一家のおうちと町の酒場で、そこでアクションを排して、きわめて緩慢なテンポで繰り広げられるウェスタンらしからぬ濃縮感情アンチ・ウェスタン室内劇である。


女性抑圧劇の先駆としてのウェスタン『ホワイティ』

 とはいっても、この映画が「ウェスタン」であるかどうかは、ジャンルというものを信じていないわたしには、どうでもいいことである。むしろ重要に思えるのは、これがウェスタンという衣を纏いながらも、抑圧のテーマと真っ向から取り組んだ初のファスビンダー映画だということだ。
 それまでの映画では、抑圧のテーマが、より隠れたかたちで顔を出すのが常だった。たとえば3か月ほど前に撮られた前作『リオ・ダス・モルテス』では、ヒロインの態度を示唆して「女性に対する抑圧は、女性の態度を見ればよくわかる」との台詞が登場する挿入シーンがあったが、この『ホワイティ』は、「女性」を「黒人」に置き換え、「黒人に対する抑圧は、黒人の態度を見ればよくわかる」とでも言わんばかりに前面に押し出した拡大ヴァージョンのような映画なのである。
 ここでは黒人混血児の主人公ホワイティが、自分が召使として仕えているご主人様一家に抑圧され、それを受け入れる態度をとっている。それどころか抑圧されるのを喜んでいるくらいだ。最後にやっと、ホワイティは非道なご主人様一家を皆殺しにして抑圧から自分を解放するのだが、今度は抑圧者を失ったホワイティは行き場がなくなってしまい、飢えと渇きが待つ砂漠に逃れて自滅するしかないというお話なのである。
 このへんは、ある主婦が男の抑圧に抵抗するため無謀な殺人行為に走って自滅するテレビ演劇『ブレーメンの自由』(1972)につながっていくし、抑圧をそのまま享受するマゾヒスティックなホワイティの態度は、『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(1972)の奴隷のような秘書マレーネにも受け継がれる。
さらに『ホワイティ』における抑圧関係は、『マルタ』(1973)や『フォンターネ・エフィ・ブリースト』(1972~74)の夫婦間抑圧劇に連結し、『自由の代償』(1975)の階級間抑圧劇や『悪魔のやから』(1975/76)のサドマゾ主従関係に変奏されていくことになる。
 というわけで、『ホワイティ』は、1970年代の前半を鮮やかに彩るファスビンダー抑圧物の先駆的映画とも言えるのである。


不遇の映画としての『ホワイティ』

 『ホワイティ』は、不遇の映画でもあった。それまでのファスビンダー・ムーヴィーで最大の製作費をつぎ込んだこの作品、1971年のベルリン国際映画祭でお披露目されたのだが、大いなる不評を被り、批評家にもほとんど無視され、配給会社も見つからず、そのまま日の目を見ることもなかった。ふたたび一般の目に触れるようになったのは、初上映から20年近く経たころ。このときようやくテレビで放映され[*1]、そのあと映画館でも上映されるようなった。
 逆に言えば、ファスビンダー本人も生前、この映画を上映する動きをとりたててしていなかったことなる。映画をつくることに忙しくて、そんなことにかまっていられなかったのか? それともそうできなかったの? それとも本作をとくに重要視していなかったのか? それとも嫌な思い出の残っている映画だから封印したかったのか? それとも…? などなどといった疑問も湧いてくるが、本人に確かめようがないので、疑問は疑問のままにしておこう。
 この『ホワイティ』、ファスビンダー本人にとってはそれほど重要な作品でなかったとしても、本人が重要な自作としている5か月後の『聖なるパン助に注意』[*2]に素材を提供した映画でもあった。とはいっても、『ホワイティ』の内容が素材を提供したのではない。本作の撮影現場で繰り広げられた混乱の極みの人間模様が[*3]、『聖なるパン助に注意』の題材になったのである。逆に言えば『ホワイティ』をつくっていなければ、果たして『聖なるパン助』は生まれたのかという疑問が湧いてくるが、疑問を持ってもそれに答えようがないので、これも無返答のまま放っておくことにしよう。


R.I.P. バルハウス、ロンメル、ベアリング 2017

 『ホワイティ』は、のちに繋がっていく「出会い」があったという点でも重要な映画だった。この映画で、ファスビンダーは、撮影のミヒャエル・バルハウスとはじめて仕事をしたのである。そしてバルハウスの映像は、その後9年間、ファスビンダーの映画世界の欠かさざる要素となったのは、よく知られるところである。
 とはいっても、両人の「出会い」は決してハッピーなものでなかったようで、バルハウスは最初のうち、こんな嫌な奴とはとても仕事をしていけないと思ったと回想している[*4]
 ミヒャエル・バルハウスは、ファスビンダーより10歳年上で、もう映画やテレビの撮影で何度も場数を積み、ある意味ではファスビンダーの先輩とも言える存在だった。それにこの人は、俳優一家の出身で、本人は役者にこそならなかったが、カメラに魅せられ、撮影の世界に入るのを運命づけられたような人だった[*5]。このへんは家庭環境からすれば、別に映画の道に進まなくてもよかったファスビンダーとは大きな違いである。
 ミヒャエル・バルハウスの自伝によれば、最初のうちファスビンダーはひどく不愛想で不機嫌で、自分の意見も無視もされ、こんなことじゃ撮影は貫徹できないと、いつでも立ち去れる準備をしていていたそうである。そのうえ妻子連れでやってきたバルハウスは、家族愛に満ちた人だったので、家族愛に飢えていたファスビンダーの嫉妬も買ったらしい[*6]
 ある日のこと、ファスビンダーはバルハウスにとびっきり複雑なカメラワークを求めた。バルハウスはそれを見事にこなし、ラッシュを観てみたら大成功。ところが誉め言葉のひとつもなく、むっつりして無言のまま試写室から立ち去っていった。ようやくあとになって、バルハウスは、製作者のウリ・ロンメルから、ファスビンダーが内緒で「あいつ、すごい!」と感涙に震えていた、と聞かされたとのことである[*7]。ファスビンダーって本当に嫌な奴である。
 たしかにこの映画を観ていると、それまでとはカメラワークが格段に違うことがわかる。こうしてとにもかくにも、このアンハッピーだった出会いから、ファスビンダーとバルハウスの実り多き共同作業がはじまることになる。その後のファスビンダー映画の多くは、バルハウスのバレエのような名人芸的カメラワークなしには考えられないと言っていいくらいだ。
 バルハウスは、ファスビンダーとの長年にわたる共同作業が終焉したあと、ハリウッドに渡り、マーティン・スコセッシやマイク・ニコルズ[*8]、あるいはかつての自分の教え子で同じ渡米組のヴォルフガング・ペーターゼン[*9]といった人々の映像を担当し、ドイツ人撮影監督としては、たぶん世界的にもっとも有名な存在となったことは衆人の知るところである。ということは、やっぱり世界映画の支配者ハリウッドに出ないと衆人の知る存在になれないということなのか? といったことはともかく、ファスビンダーとの仕事がハリウッドの門を開けてくれたことは想像に難くないし、本人もそう認めている[*10]
 そのミヒャエル・バルハウスも、2017年の春、亡くなってしまった。そのあとこの2017年の冬、『ホワイティ』の成立に大きな役割を果たしたふたりの人物も立て続けになくなってしまった。
 ひとりはウリ・ロンメル。
 そもそもミヒャエル・バルハウスをこの映画に引き入れたのは、本作の製作者にして出演者のウリ・ロンメルだった。バルハウスとロンメルは旧知の間柄で、ロンメルが、アイルランドでドキュメンタリー映画を撮っていたバルハウスに『ホワイティ』の撮影に来てくれないかと声をかけたとのことである[*11]。もしロンメルがバルハウスを呼ばなければ、不可分と言ってもいいあのファスビンダー&バルハウスの共同作業は存在しなかったのかもしれないが、まあ、めぐり合わせというのは、そういうものなんだろう。
 ウリ・ロンメルは、バルハウスに先んじてアメリカに渡り、いわゆるB級映画を続けさまに監督をしていった(ロンメルについては、本シリーズ「ファスビンダーの映画世界」其の四で触れてあるので、そちらをご覧いただきたい)。2000年にアメリカのファントム社からリリースされた『ホワイティ』のDVDでは、ハリウッド在住のロンメルとバルハウスのふたりが、混乱の極みとしか言いようのなかったこの映画の撮影状況について楽しそうにコメントを交わしているが、ふたりとももう楽しく会話を交わせるようなこの世の存在であることをやめてしまったことを想うと、なんだか感慨深いものがある。ひょっとすると来世でもふたりは楽しく話を交わしているのかもしれないが、そうかどうかは、まだ現世の存在たるわたしには知りようもない。
 もうひとり去年2017年に亡くなってしまったのは、ペーター・ベアリングである。ベアリングは、この2017年逝去3人組のなかでは、一番知られていない人かもしれない。
 ベアリングも、ウリ・ロンメルが呼んで『ホワイティ』に引き入れた人である。このふたりが本作の製作中枢で、ロンメルは製作者としてこの金欠プロダクションの金策に走り、かたやベアリングは、撮影現場の実務を取り仕切るマネージャーとして製作主任の役目を果たした。この映画は、セルジオ・レオーネの『ウエスタン』のセットを無償で使わせてもらって撮影されたが、その手配をしたのもイタリアに住んでいたベアリングだったとのことである[*12]
 ベアリングもバルハウスと同じように、最初のうちファスビンダーから疎まれていたし、ふたりは直接話すこともなく、助監督のハリー・ベーアが連絡係をつとめていた。そうこうするうちに、ベアリングとファスビンダーが取っ組み合いの喧嘩をする事態が発生、よくそうなるように、この爆発以降、ふたりの関係は急遽改善し、現場のお目付け役ベアリングに対する撮影チームの反乱が起こりそうになったときも、ファスビンダーは「みんな、“お母ちゃん”の言うことは何でもやること!」と申し渡したとのことである[*13]。以来、ベアリングは「お母ちゃん(ムティ)」とのニックネームで呼ばれるようになるのだが、たしかに本人は「お母ちゃん」の名にふさわしい母船じみた巨漢だった。
 とにかくペーター・ベアリングは、混乱、困窮、紛糾の極みで、いつなんどき空中分解してもおかしくなかった撮影現場をなんとかまとめ、最後のカチンコまで持っていかせた人だった。ファスビンダーもそれに感謝してこの映画をベアリングに捧げているし、『ホワイティ』の体験をもとにした映画『聖なるパン助に注意』で、ベアリングをモデルにした製作主任役を演じているのもファスビンダー本人である。 ペーター・ベアリングは、撮影一筋のミヒャエル・バルハウスとは違って、三筋も四筋もある多彩な経歴の持ち主で、建築家夫婦の息子として生まれ、グラフィック・デザイナーとして世に出、どういうわけだかシネマの世界に入って製作業に携わり、脇役・端役として数え切れないほどの映画に出演した。ファスビンダー映画にも長編第一作『愛は死より冷酷』から役者として顔を出しているし、この『ホワイティ』でも前作『リオ・ダス・モルテス』と同じように酒場の亭主に扮している。とはいっても、わたしの脳がベアリングの名を聞いてパブロフの犬ように条件反射的に咄嗟に想起してしまう役柄は、なんといってもヴェルナー・ヘルツォークのコンキスタドール・アマゾン下り物『アギーレ、神の怒り』で、キンちゃん、すなわちクラウス・キンスキーにより即席ペルー皇帝に任命されるスペイン貴族ドン・フェルナンド・デ・グスマンである。
 ベアリングは、ファスビンダーの死と前後して1980年代のはじめ、映画製作の仕事から身を引き、80年代末に突如として物書きとしてデビュー、中世を舞台にした分厚い歴史小説を何作も書くほか、自伝とファスビンダー本を兼ねた『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの13年』(1992)[*14]なる書も著した。さらに20世紀が21世紀に変わるころには、深夜に放映されていたアレクサンダー・クルーゲのテレビ番組『facts & fakes』の常連と化し、即席変装で歴史上の人物に扮しながらクルーゲのフェイク・インタヴューに答えるペーター・ベアリング氏のお姿を、わたしも何度か拝見したことがある。


ヴィスコンティ・オマージュとしての『ホワイティ』

 『ホワイティ』が、ラウール・ウォルシュの『南部の反逆者』(1957)に触発された映画だとファスビンダー本人が言っていることは、知る人ぞ知るほどには知られている[*15]。さらに評論家ヴィルヘルム・ロートは、スタンバーグの『モロッコ』(1930)との近似性に触れているし[*16]。映画学者トーマス・エルゼッサーは、この映画とパゾリーニの『テオレマ』(1968)の並行性を指摘している[*17]
 ただエルゼッサーのように、異分子侵入者テレンス・スタンプを通じて崩壊していくブルジョワ一家を描いたパゾリーニの『テオレマ』との並行性を挙げて、本作『ホワイティ』の政治性を強調するのは、ちょっとお門違いのようにも思える。『ホワイティ』の主人公は、たしかに混血児という特殊で低い立場にいるが、侵入者ではなく、もともとブルジョワ一家の一部だし、本人もどんなに抑圧されようと、最後までこの一家に忠実で、その一員であろうとするのだ。彼が、この一家を葬るのは、最後に家族の成員が酷い奴らだということが判明したせいで、ここにはパゾリーニばりの階級闘争的な政治性はない。
 ファスビンダーの遺稿を整理したミヒャエル・テーテベルクによると、『ホワイティ、テロルの天使』と題された初稿脚本では、有利な白人農園主の側について黒人労働者を搾取に手を貸していたホワイティが、最後には下僕の制服を脱ぎ捨て、黒人と同じ作業服を着て連帯を示す階級闘争的シーンがあったが、ファスビンダーはこうした露骨な政治的部分を削ってしまい、映画はけっきょく私的な抑圧と葛藤の家庭ドラマ化したとのことである[*18]。このへんはいかにもファスビンダーらしいし、この人の場合は、マクロの政治思想を訴えるのではなく、ミクロの個人の物語に落とし込むことで、結局はもっと深層で政治的なものになるのである。
 とにかく、わたしが『ホワイティ』を観たときに想起してしまったのは、どういうわけだか、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』だった。いや、別に両作に表面的な近似性や並行性があるわけではない。見るからに似たところがあったとしても、せいぜい『地獄に堕ちた勇者ども』のヘルムート・ベルガーにひっかけたとおぼしきマレーネ・ディートリヒ風下着姿のウリ・ロンメルの場面くらいのものである。なのに、どうして『地獄に堕ちた勇者ども』を想起してしまったのか、と考えてみると、たぶんそれは『ホワイティ』に漂う、ものものしい雰囲気のせいだったのだろう。とはいっても、ヴィスコンティの場合はオペラ的に豪勢に、ファスビンダーの場合は演劇的にシンプルである。陰謀が渦巻く狂った資産家一家という設定もなんとなく似ているが、ヴィスコンティの場合は貴族的に贅沢に、ファスビンダーの場合は平民的で卑近で、近親相姦的な部分も両作に共通しているが、ヴィスコンティの場合は顕在的、ファスビンダーの場合は内在的である。
 そのあとで知ったのだが、どうもファスビンダーは、『ホワイティ』を撮る数か月前に西ドイツで公開されたヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』の大ファンだったらしい。1980年の「フェイヴァリット・リスト」でファスビンダーは、「ベスト・フィルム10」の筆頭に『地獄に堕ちた勇者ども』を挙げているし[*19]、あるインタヴューでは、「(自分と波長の合わない監督の新作を観るくらいなら)『地獄に堕ちた勇者ども』を20回観たほうがいい」とまで言っている[*20]。きわめつけは、70年代の半ばに、あるスノッブなニューヨークのインタヴューアーと交わした会話で、「たぶん『地獄に堕ちた勇者ども』ほど偉大な映画はないだろうし〔...〕、ヴィスコンティはこの映画のなかでファシズムの空気をつくりだし、同時にそれがとんでもないものだっていうことも明らかにしたんですよ」と語っている[*21]
 なんだかこの発言も、ファスビンダーの映画というものに対する姿勢をよく表しているように思えるし、『ホワイティ』に漂っている空気も、やっぱりどこかファシズムの根源を探っているように感じる今日この頃である。これはわたしの思い過ごしかもしれないが、まあそういうことである。
 といったことは、とりあえず見過ごし、先をつづけることにしよう。


『ホワイティ』の役者たち、やっぱり花はハナ

 主人公が黒人と白人の混血児という設定になっているのは、当時ファスビンダーが自らの恋愛対象だった混血俳優ギュンター・カウフマンに主演させるためにつくった映画だからだ。
 どうもこの時期、ファスビンダーは、カウフマンを自分の映画の男優スターに仕立てようとしていたようで、『ホワイティ』のあとも、カウフマンにベトナム帰りのアメリカ兵ギャングをやらせて『アメリカの兵隊』をつくることにし、撮影も開始したのだが、ファスビンダーとカウフマンは大いなる仲違いをして頓挫、こちらは配役を変えて撮りなおされることになったという経緯は、本シリーズ「ファスビンダーの映画世界」其の八に記したとおりである。
 ヒロインのほうは、いつもどおりハナ・シグラ。とはいっても、ファスビンダーのギャング映画にみられるごとく、ここでもハナは役柄としては衛星のようなヒロインである。それでもゾンビのような人間ばかりが出てくるこの映画では、彼女は唯一人間らしい人間だし、一番輝いている存在であることも確かだ。主演はギュンター・カウフマンでも、スターはやっぱりハナ・シグラなのである。
 ハナ・シグラと並んで『ホワイティ』における主要な女性は、ハイエナのような若妻兼継母を演じているカトリン・シャーケだ。これはシャーケが全編出ずっぱりの大役を演じた唯一のファスビンダー映画でもある。
 主要な出演者のなかで一番異色なのは、ホワイティのご主人様一家のパパを演じているロン・ランデル。オーストラリア人ランデルは、ハリウッドで活動していたこともある人だ。というわけで、これがハリウッド俳優起用の初ファスビンダー映画となったわけで、この面ではハリウッドへの接近を見せたともいえるが、映画を観てみるとまったくハリウッドへの接近を見せていないことがわかる。
 そのほかは、大体においてこの時期お馴染みのファスビンダー映画の俳優。それも大体はこの時期の常として、スタッフとの兼業で、製作者ウリ・ロンメルは一家の息子フランク、助監督ハリー・ベーアはもうひとりの息子デイヴィを演じ、監督ファスビンダーご本人も酒場の暴力的なお客さんとして出演。端役では前述のとおり製作主任のペーター・ベアリングが酒場の亭主、美術担当のクルト・ラープは、ピアノを弾いていないことが見え見えのピアノ弾きに扮している。現場にいたスタッフの親族も出演者に徴用され、撮影のバルハウスの奥さんでプロ俳優のヘルガさんは、判事の妻を演じた。
 俳優たちの演技は、いかにもこの時期のファスビンダー映画らしく、演劇的で言葉少なげで、なにか言い出しかねている風情である。


バルハウスの映像、ラーベンの音楽

 映画『ホワイティ』は間抜けではない。『ホワイティ』は間(ま)のたっぷりある映画である。台詞の間(ま)が長く、牛歩じみたゆっくりとしたテンポで進行するこの映画、その分、そこに絡んでくる映像や音が大きな役割を果たしている。
 この映画、観てみると、前述のとおり、まず映像がそれまでとは格段に違うのがわかってくる。ファスビンダー映画に初登場したミヒャエル・バルハウスのカメラが違うのだ。バルハウスの計算された巧妙な長回しのカメラワークは、焦点を移していきながら、一場面をノーカットで撮ってしまうこともある。人物にこれといった動きがなくとも、カメラの眼に動きがあるのだ。ハナ・シグラを除けば、生気のない人間だらけのこの映画、ハナとともに最も生気のあるのはバルハウスのカメラかもしれない。
 ちなみに、前作のファスビンダー初のカラー映画 『リオ・ダス・モルテス』がテレビ用の解像度の低い16mmで撮影されたのに対し、こちらはファスビンダー初の劇場用35mmカラーにして唯一のシネマスコープ映画。今やDVDでもその美しい画面を見ることができる。
 バルハウスのカメラとともに映画に生気をもたらすのは、ペーア・ラーベンの音楽だ。いつもながら定型の相乗効果もムード効果も目さず、扇動性皆無のラーベンの緩みながら緩みきらない付帯音楽は、ときにウェスタン風味を添えながら、全編にわたって映画に付き添い、描かれる場面に身を寄せながらも、ときおり離反するという興味深い対応をみせている。なかには、わが国の伝承曲「さくら、さくら」の旋律を引用したチューンまで出てくる。
 この映画は挿入ソング多発作品でもあり、酒場でハナが歌うソングも、カウフマンが歌うタイトル・ソングも、いかにもウェスタンらしく全曲A5、いや英語である。 そればかりではない。音楽が同伴していないときも、暑苦しく厚かましい鳥の声(若妻不倫シーン、屋外鞭打ち場面)、しつこく逃れようのないブーンという蠅の羽音(台所)、せわしなくカチカチと時を刻む焦燥性の時計音(ハナの部屋)につきまとわれ、台詞にたっぷり間(ま)があるため、それが単なる音響効果を超え、ときには騒がしく、ときには不気味に、ときには神経質に、あたかもその場の心の風景を代弁するかのように耳に届いてくる。
 そしてこの『ホワイティ』では、俳優の動き、バルハウスのカメラワーク、ラーベンの音楽が、バレエのように紡ぎあげられていくシーンが多発する。その意味では、後年のファスビンダー映画『デスペア』や『シナのルーレット』の先駆的作品でもある。

 それでは映画を観てみよう。




最初から最後の予告

 この映画、最初から最後の予告ではじまる。
 タイトル画面に同伴するのは、変調ウェスタン風オープニング・ソング。西部劇らしく、「パッパラッパァ~」なる馬に乗っているようなトランペットの威勢の良い掛け声が聞こえるのだが、映し出されるのは威勢よく乗馬する動画ならぬ、じっと手に花を握って倒れている主人公ホワイティの静止画。図ったのかどうかはわからないが、のっけから音と映像の背反である。
 この曲、いかにもペーア・ラーベンの音楽らしく、パンツの紐が緩みがちな崩しのある曲調で、主演者ギュンター・カウフマンが英語で歌う内容は、こんな感じだ。

  みんなを聖夜に殺してやる
  俺の「アーメン」は神からの授かりもの
  俺の心もこう叫んでいる。それが正しい、正しい、正しい
  必要なのは五発だけ
  パパに二発
  ママに一発
  兄弟に二発
  これでみんなに五発…

 そして、この歌詞があたかも脚本であるかのように、最後に主人公ホワイティは、パパに二発、ママに一発、異母兄弟ふたりに一発ずつの計二発、総計五発の銃弾をぶちこんで、家族の皆さんをこの世から葬り去るのである。
 このように、のっけから歌で最後の展開をさっさと明かしてしまうわけだが、本作は、どんでん返しのスリルやサスペンスで見せていく類の映画ではないので、別に問題はない。
 かといって歌の内容を知らなくとも、本作の鑑賞にさして支障をきたすとは思えないので、こちらのほうも問題はない。
 というわけで、この件は見過ごすことにしよう。

 歌の第二番はこんな感じである。

  夜な夜な、女の子と逢引
  俺は、彼女の言うことを相手にしない
  でも俺の心はこう叫んでる。彼女の言うことは正しい、正しい、正しい
  俺の頭のほうは、こう言ってる。今のままでいい
 〔以下リフレイン〕
  パパに二発
  ママに一発
  兄弟に二発
  これでみんなに五発…

 ここで言う「女の子」とは、ヒロインのハナのことだ。ハナは、抑圧されているホワイティに対し、現状を打破して自分を解放することを説くのだが、ホワイティは相手にしない。心ではなく、頭でしか考えないホワイティは、いくら抑圧されようと現状は自分に適ったものだし、今のままでいいと主張。それが物語の核となるのである。 というわけで、やっぱりのっけから、いろいろと示唆されているわけである。
 とはいっても、歌詞内容に注意深く耳を傾けなければ、こうしたことはわからないし、わからなくても本作の鑑賞に甚大な支障をきたすとは思えないので、本件も、さっさと見過ごすことにしよう。


抑圧享受者ホワイティ

 タイトル・ソングの歌詞に出てくるママは、主人公ホワイティの本当のママではない。これは白人の継母のママで、ホワイティの本当のママは、料理女の黒人ママ。 混血児ホワイティは、一家のご主人様たる裕福な白人農園主が、この黒人女性に孕ませた子だ。
 白人世界と黒人世界の狭間の存在ホワイティは、パパの家族と暮らしながらも家族にふさわしくない扱いを受け、一家の召使としてお仕えしている。
 それでも彼は、この抑圧を過激なまでに受け入れ、一家にとことん忠実だ。

 物語は、黒人ママとホワイティの諍いの場面ではじまる。映画のテンポはやたらと遅い。
 ところは蠅の羽音がブーンと不気味に聞こえる台所。
 召使ホワイティは、料理人の黒人ママがつくったプディングが、一家の方々のお口に召さなかったことに文句をつけ、ママに「皆さんの気に入るものをつくってくれ」と要求する。そう、ホワイティもプディングと同じように白人の皆さんの気に入られたいのだ。そのほうがお得だからだ。
 このようなホワイティの奴隷根性に対し、黒人ママは奴隷解放歌を口ずさみ、この歌をやめさせようとするホワイティに唾を吐きかける。ホワイティは黒人からすれば、その名のとおり「白んぼ」なのである。


狂ったご主人様一家

 召使ホワイティは、一家が食卓を囲んでいる広間に、ふたたび入場するのだが、入室のさいのドアを「ギィィィ~!」とホラー映画じみて開けたため、継母の白人ママが驚愕、「キャァァァ~!」とホラー映画じみた悲鳴をあげる。というか、ここは意図的にB級ホラー映画的なつくりがされている。
 ホワイティがしでかしたこの粗相(こんなの粗相と言えるのか?)に対し、家長のパパはさっそく鞭を振り上げ、彼を叩きのめす。こんな理不尽な仕打ちを受けても、ホワイティは「ありがとうございます、ご主人様!」と卑屈に感謝するだけ。この男はあくまで忠犬ハチ公のように、ご主人様に忠実なのだ。
 このへんは、どんなに酷な仕事を押しつけられても引き受け、どんなに残業を強いられても頑張り、どんなに不条理な叱責を受けても「ありがとうございます、社長!」と感謝しながら耐えつづける、ブラック企業の忠実な社員を思わせる。
 さてここで、この狂ったご主人様一家の紹介。強権的な家長の中高年パパ(ロン・ランデル)は、若い後妻キャサリン(カトリン・シャーケ)を娶ったばかり。
 パパには前妻とのあいだに出来たふたりの成人息子がいて、ひとりは何を考えているのかわからないフランク(ウリ・ロンメル)、もうひとりは障害児のデイヴィ(ハリー・ベーア)。というわけで後妻キャサリンは、年齢的にそれほど変わらないこのふたりの息子の継母ともなったのである。
 母キャサリンは、障害児デイヴィのぶざまな振舞に業を煮やし、こんな役立たずは、注射で安楽死させてあげましょう、などと恐ろしいことを提案、パパに諭される。
 この部分は、かつてナチが、優生学的見地と国家のお荷物になるという理由から、障害者を組織的に殺していった「安楽死計画」を思わせ、本当に恐ろしい。
 一家の皆さんの顔は、わざとらしく白塗りだ。蒼白である。唇まで白い。とくにパパは、吸血鬼ドラキュラじみているが、金満農園主の資本家パパは、下々の者の労働を搾取し吸い取って、富を築き上げた吸血鬼のような存在だから、まさにこのメイクはお似合いとも言えよう。
 とにかく、このようなお顔を拝見しただけでも、皆さん病んでいることがわかるし、あとで判明するのだが、家族のだれもがお互いを陥れ、殺そうとしている。でも、みんな自分の手は汚したくないので、殺しを召使いのホワイティに依頼する(が、彼はとりあえずのところは実行しない)。ほんとうに汚い奴らだ。
 疫病のように渦巻くこの一家の策謀に無縁なのは、障害児デイヴィだけだ。だから、一番病んでいそうなデイヴィが、一番病んでいないということになる。
 とにかく、こんなに病んだ家族のシーンなのに、同伴するペーア・ラーベンの音楽はそれに逆らい、家族団欒を演出するような、ほんのりとした抒情的な曲調だ。図ったのかどうかはわからないが、ときおり顔を出すこの齟齬が、本作におけるラーベン音楽の優れた特徴である。


突如として余談、わが名はニッケルゾン

 この前、テレビで『ファイブ・イージー・ピーセス』という映画が放映されていた。それについて近所に住んでいる色っぽく豊満なドイツ人のお姉さんに、その感想を聞いてみたところ、
 「ニッケルゾン、よかったわ~」
 との返答があり、
 「ニッケルゾンってだれ?」
 と尋ねたところ、
 「えぇぇ?! ニッケルゾンも知らないの? あなた、無知ねえ。わたしはムチムチ、あなたは無知無知~。ニッケルゾンって『シャイニング』にも出てた人よ。知らないのぅ?」
 いや、そんなことはない。わたしは『シャイニング』を観たことがある。この件について3日3晩考えぬいた結果、はたと気がついたことは、わたしを無知無知呼ばわりしたムチムチのお姉さんが、ニッケルゾンとの音声で意図していたのは、主演者のジャック・ニコルソンだったということである。こうしてドイツ語話者は、往々にして英語名ニコルソンをニッケルゾンと発音することが判明した。
 本作『ホワイティ』のご主人様一家の名字も、NICHOLSONである。つまりわが国の標準的表記に従えば、ニコルソンである。でも映画を観ていると、やっぱりニッケルゾンとかニッケルスンに聞こえる。パパ役のロン・ランデルは英語圏オーストラリア出身の俳優だが、そのお声はドイツ人声優によって吹き替えられているので、やっぱりそう聞こえる。というわけでこの文章でも、本作がドイツ語版でしか存在しないことに鑑み、ニッケルゾンとの表記で統一することにしよう。
 まあ、こんなことはどうでもいい。先を続けよう。


本作の花、歌姫ハナ登場

 ところは変わって、町の酒場。そこで歌姫ハナ(ハナ・シグラ)が歌っている。とはいっても、ハナが歌うペーア・ラーベンの曲は、荒くれ西部のおもてなしチューンというより、1920年代の前衛ベルリン・カバレット・ソングのような感じだ。
 ハナは歌いながら、酒場のなかを歩き回り、ときおり客の膝のうえに乗るなどして、媚を売る。さすがにプロの歌姫だ。
 この酒場には白人しかいない。混血児ホワイティは、召使の制服ではなく、白いスーツに身を固めて酒場をのぞき込み、この白人世界に入り込む。でもやっぱり見かけは黒人だから、白人の皆さんに白い目で見られる。
 歌姫ハナのほうは、いっさいそのような差別はせず、数か月後のファスビンダー映画『アメリカの兵隊』で再利用されることになるソング「川のほとりに座りながら」を歌い[*22]、ほかの白人客にするように彼の膝の上に乗り、赤い花を一輪プレゼントし、そればかりか熱いキスをする。
 それを見た暴力的な客のブッチ(ファスビンダー)と仲間は、もう我慢ならぬとばかり、ホワイティをぶちのめし、外に放り出してしまう。タイトル映像に用いられている図は、外に放り出され、ハナからもらった花を手に倒れているこのホワイティの姿である。
 差別知らずの歌姫ハナは、蒼白で生気のない人間ばかり出てくるこの映画のなかで、もっとも血が通った人間らしい人間だ。だから彼女の肌は輝くように血色がいいし、口紅が塗られた唇も鮮やかな血のように赤い。
 この酒場シーンは、ハナやホワイティの姿を追うミヒャエル・バルハウスの巧みな長回し映像が、初登場するところでもある。


家内の陰謀

 暑苦しく厚かましい鳥の屋外音が聞こえるなか、家内ではパパの若妻キャサリンが、男と浮気をしている。この男はどうも医者らしく、パパが病に侵されていて、もうすぐ死ぬことを告げる。それを聞いたキャサリンは狂喜、ふたりはベッドに倒れ込む。
 かたや厩では、もうひとりの息子フランクが、馬を愛撫しながら、ホワイティに「金持ちになりたいんなら、パパを殺せ」と父親殺し持ちかける。フランクはパパの遺産を狙っているのだ。
 若妻キャサリンのほうはパパに、「お医者さんにあなたの余命は短いって言われたわ。わたしの将来のことも考えてね」などと臆面なく言う。「わたしの将来のこと」とは遺産のこと。キャサリンも遺産が欲しくてたまらないのだ。
 じつはキャサリンの浮気相手は、パパが送り込んだ偽医者で、この男が大嘘をついていることに彼女は全然気づいていない。パパは自分の余命が短いという大嘘をキャサリンに吹き込み、彼女を罠にかけてギャフンと言わせようとしているのだ。
 こうして三人三様のたくらみと陰謀が、平穏な見かけの裏で渦巻くことになる。なんという家族だ。
 今度はこの三人による農園の黒人労働者論議。
 パパは、ホワイティが、農園の黒人労働者の権利をもうちょっと認めたほうがいいと提案をしたと言う。息子フランクも若妻キャサリンも、そうしたほうがいいと同意する。理由は、そうすれば黒人労働者の不穏な空気が抑えることができるし、そのほうが農園経営にとってお得だというもの。つまり経営者側は、人権ではなく、損得勘定で、奴隷労働者の扱いを少々緩和しようというわけだ。まあここにかぎらず残念ながら、どこでもそのようではあるが。
 そんな会話を交わしているとき、台所でホワイティの黒人ママが口ずさむ奴隷解放歌が聞こえてくる。パパは台所へのドアを閉めさせ、歌をシャットダウンさせる。
 ここは本作のなかではもっとも政治的な匂いをかがせるシーンである。

 こうした陰謀や思惑に無縁なのは、一家のお荷物の障害児デイヴィだけである。
 デイヴィは最大の役立たずだが、最高に純な存在だ。だからホワイティも、厩にやってきたデイヴィを愛撫し、彼にキスをする。家族の成員のなかで、ホワイティがここまで愛を示すのはデイヴィだけだ(と同時に、この時期のファスビンダーらしくホモセクシュアルな含みも示される)。


忠犬ホワイティ

 もうひとりホワイティが愛を示すのは、酒場の歌姫のハナだ。いや、ハナのほうが、ホワイティに愛を示すと言ったほうがいい。
 世間から見下される酒場の女ハナは、薄弱児デイヴィと同じく社会のあぶれ者で、混血児ホワイティと同類だ。ホワイティがこのふたりと違うのは、彼がこの腐った社会のお仲間になろうとすることである。
 客が帰ったあと、ホワイティがお忍びで窓から入ってくる。混血児だから白人社会の玄関から入れないのだ。ハナはホワイティに「一緒に東部に行きましょうよ」と言うのだが、ホワイティは「ここに満足している」と取り合わない。白人野郎に酒場から叩き出されようと、家でパパに鞭打たれようともである。

 今度、鞭打たれることになるのは、デイヴィだ。デイヴィが、パパとママの愛の行為の覗きをやり、パパが不能に陥った姿を見てしまったというのがその理由である。
 自分の不発の姿を見られたパパは、息子デイヴィを激しく鞭打つ。そこにホワイティが登場、自分が身代わりになると申し出る。なんという犠牲精神、なんという愛他心、それとも奴隷根性なのか?
 パパは身代わりになったホワイティを激しく鞭打ち、そのサドマゾ的光景と黒い肉体に恍惚とした若妻キャサリンは失神。ホワイティは歯を食いしばって無言で耐えるのだが、最後には大きな苦痛の叫びをあげる。




パパの人殺し、ママの平手打ち

 町のちっぽけな郵便局。ハナが自分宛に届いた郵便物をとりにいく。居合わせた女性客は彼女を冷たい目に見る。やっぱりハナは社会のあぶれ者なのだ。
 郵便局の外では、若妻キャサリンに大嘘を吹き込んだ例の偽医者が、自らの演技を自画自賛し、この策略の仕掛け人のパパに約束の金を要求している。ところがパパは、この偽医者をさっさと射殺してしまう。死人に口なし、なんでも計算づくめ。人の命なんかどうでもいい。こうやってパパは、証拠隠滅を図るわけだ。
 それを窓越しにハナが目撃する。
 ところは変わって保安官事務所。パパは保安官に、この偽医者を撃ち殺したのは、この男が自分の妻を強姦したうえ、それを吹聴したからだと嘘をつく。
 このパパ、本当に嘘の塊だ。ところが証人として同席しているハナは、なんと、パパと口裏をあわせる。
 この保安官事務所のシーンは、この映画では珍しく光と影が交錯する場面だ。
 ここではいつもは顔色のいいハナも、嘘つきパパと同類のように蒼白に撮られている。彼女が嘘をつくからだ。

 ニッケルゾン家では、この嘘つきパパに鞭打たれたホワイティが、キャサリンの手当てを受けている。パパの余命が短いという例の嘘を信じている継母キャサリンは、息子フランクを殺して、遺産をふたりで山分けしようとホワイティにもちかける。
 その模様を当のフランクを盗み聞きする。彼は狂乱し、口から泡を吹かせながら「ぼくのママは売女だぁ~~!」などと叫びながら、階段を駆けおりる。
 今度は継母キャサリンが、息子フランクに対して体罰を加える番だ。パパのように鞭を持っていない彼女のお仕置きの道具は、自分の素手。彼女はフランクに何度も何度も激しい平手打ちを食らわせる。
 この平手打ちはフェイクではない。監督ファスビンダーの指示に忠実に従って、継母役のカトリン・シャーケが、息子に扮する実生活の夫ウリ・ロンメルに、本当に渾身のビンタを何度も何度も食らわせているのである。このシーン、最後のほうではロンメルの顔が、真顔になっているのがわかるし、これは演技ではない。シャーケ/ロンメル夫婦は、その後何日間も一言も口をきかなかったそうである[*23]

 町にはパパの姿。パパはハナのところに向かう。このシーン、本作では例外的にいかにもウェスタンらしく、さんさんと輝く太陽のもと、不毛の西部の町をパパが歩いていくのだが、音楽のほうはウェスタンならぬイースタン。なにしろ、映像に同伴するペーア・ラーベンの音楽は、わが国の伝承歌謡「さくら、さくら」の旋律を引用したものなのだ。ラーベン、いったいどこでどうやってこの曲を知ったのだろう。
 それはともかく、パパの向かう先はハナの部屋。パパがノックすると、ハナは戸を開け、「いらっしゃると思ってましたわ」と返答。ここでカット。でもあとで、パパがハナに偽証した礼として大金を渡したことが判明する。


母子のホワイティいじめ

 舞台は変わって、ホワイティのおうち。
 先の強烈平手打ちシーンで犬猿の仲になったと思いきや、継母キャサリンと息子フランクが仲良く座っている。そして、ふたりは将来のご主人様候補として、ホワイティに対する権力をデモンストレートしている。
 まず継母キャサリンが、呼び鈴を鳴らし、ホワイティを呼ぶ。そして「お水がほしいわ。氷入りでね」と命令を下す。
 ホワイティが氷入りのお水をお持ちすると、キャサリンは一口飲んだだけで、グラスを返す。ホワイティ、ふたたび退場。
 すると、キャサリンがまたまた呼び鈴を鳴らし、ホワイティが入場。彼女は「お菓子をちょうだい、すぐによ」と命令する。
 お菓子は、キャサリンとフランクが座っている目の前のテーブルに、お皿に盛られている。こんなの自分で手を伸ばしてとればいいものを、わざわざホワイティを呼ぶのである。
 ところが、ホワイティがお菓子の盛られたお皿をキャサリンの前に差し出すと、彼女は「もう食べる気、なくしたわ」と言い、ホワイティは引き下がる。もう弄ばされているとしか言いようがない。
 今度は、息子フランクが呼び鈴を鳴らす。ホワイティ、入場。
 フランクは「ぼくもお菓子がほしい」とのたまい、ホワイティがお菓子の皿を差し出すと、フランクはお菓子をひとつ取り、口に入れて、ムシャムシャやりはじめる。
 ホワイティが退場すると、ふたりは「キャハハハァッー!」と大笑いし、フランクはキャサリンにキスして「愛してます」などと言う。フランクは、キャサリンがホワイティに自分を殺させようとしているのに全然気づいていない。まったく、どうしようもない騙しっこ一家である。
 まだまだホワイティ弄びゲームはつづくとばかり、キャサリンが呼び鈴を鳴らす。それも激しくである。すると、いつもながらしかめっ面のパパがホワイティ連れで入場。その場がしーんとなり、あわてたキャサリンは「呼び鈴を倒してしまったのよ」などと見え透いた言い訳をする。


自己解放拒否者ホワイティ

 ホワイティは、ハナの部屋で上半身をはだけてベッドに横になっている。
 ハナは「あんた、まったく自由になろうしてないじゃないの。自由もなく依存している」と核心をついたことを言うが、ホワイティは「なんだったら金も払う」などと言い、腐った社会の白人どもと同じ振舞をする。それに対し、ハナは「帰ってちょうだい」と拒否。ホワイティは窓から去っていく。

 おうちでは、女装したフランクが黒い下着を着け、呼び鈴を鳴らして、ホワイティを呼び、「髪をとかしてちょうだい。痛くしないでね」などと言い、セクシャルなお誘いをかけてくる。ホワイティは黙ったまま。
 「なんでパパを殺してくれなかったの?」という問いにも、ホワイティは黙ったまま。「この黒んぼめ!」とのフランクの罵声にもホワイティは黙ったままで、彼は部屋を出て行く。
 このフランクの女装ランジェリー姿は、どうもヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』でヘルムート・ベルガーがマレーネ・ディートリヒの真似をする場面のひっかけのようである。
 今度はキャサリンがホワイティに抱きついてくる。ホワイティは拒絶。キャサリンは「黒人が白人の男を侮辱していいの?」とフランクに対するホワイティの態度をなじると同時に、「なんでフランクを殺さなかったのよ」と責める。

 ところは変わって判事のお宅。パパが判事のお宅を訪れると、判事の奥様が可愛い子猫を抱いて、ゆるりゆるりと優雅に階段を下りてくる。この奥様に扮するのは、撮影監督ミヒャエル・バウハウスの奥様ヘルガさんだ。
 パパは判事に、若妻キャサリンに対する自分の陰謀を明かす。遺産狙いのキャサリンに自分の余命が短いと思い込ませておき、しばらくジタバタさせておいて、放り出すつもりだと言う。判事も「そりゃすばらしい」と応対し、ふたりは大笑いする。
 パパの笑顔が見られるのはこのシーンだけだ。パパが笑うのは、こんな陰険なたくらみを語るときだけなのだ。このパパ、本当に病んでいる。

 さて、白人客のいない酒場にいるハナとホワイティの姿。ハナは、ソング「一緒にはやっていけない」を歌う。たしかにホワイティが、あんな家族に忠誠を誓って自己解放を拒否しているようじゃ、本当に一緒にやっていけない。
 そこに白人暴力男ブッチが登場。ホワイティはその場を去り、いつもどおり壁をよじ登ってハナの部屋に窓からはいろうとするが、ハナは窓を開けない。「一緒にはやっていけない」からだ。


パパの遺言宣言

 ニッケルゾン家の広間では、ドラキュラじみた様相のパパが、自分の余命が短いと例の大嘘をつき、遺産は、妻キャサリンと息子フランクが二分するが、キャサリンが再婚した場合、あるいはフランクが結婚した場合は、すべてフランクのものになる旨を告げる。そのときキャサリンがもらえるのは、一時金だけだ。基本的には追い出しである。
 そうなるとパパの死後には、キャサリンはフランクの結婚を阻止しようとするだろうし、フランクはキャサリンの再婚を計るだろうし、お互い殺し合いになるかもしれない。仮にキャサリンがフランクと結婚したとしても、財産はすべてフランクのものだ。これも火種になるだろう。またまた陰謀が渦巻くことになる。
 このような遺言宣言がおこなわれると、騒ぎが持ち上がるものだが、キャサリンはこれといった反応もしないし、そんな騒ぎはこの映画にはお似合いでもない。
 パパは、障害児の息子デイヴィ、ホワイティとその黒人ママの処遇についても触れ、今のまま一生この家で暮らすことができる旨を告げるのだが、けっきょくのところ、ホワイティは召使のままだ。奴隷のままである。
 この場面は、カメラが居合わせている五人の人物にそれぞれ焦点をあてながら動いていくというノーカット長回しシーンで、これが、ファスビンダーがバルハウスへの「テスト」として撮らせ、隠れて感激した、例の映像だとのことである[*24]
 そして基本的に『ホワイティ』最大の映像特徴は、このシーンとその延長線上にある美しく流れていく長回しのカメラワークにある。


ホワイティの自己解放Ⅰ

 酒場の階上のハナの部屋。ここは、いつもどおり時計の時を刻む音につきまとわれている。ハナとホワイティがいる。
 ハナは、「歌手の口が見つかったから、シカゴに行くわ。ギャラもいいし、二人分の生活費くらい、なんとかなるわよ」とホワイティをシカゴに誘う。
 ところがホワイティは、「俺はあの家族がみんな好きだ。ここに留まる」と拒否し、またまた現状維持を主張。これに対し、ハナは、怒りを爆発させ、ホワイティの家族がどんな奴らか教えるため、パパが、若妻キャサリンに偽医者を送りこんで自分の余命が短いことを吹き込み、この偽医者が役目を終えたら、さっさと殺してしまったことを明かす。そのうえ、ハナが偽証したときに、謝礼としてパパからもらった札束を見せ、ホワイティに「あんな家族、みんな殺してよ、あいつらから自分を解放してよ」と激しくせっつく。ここは珍しく感情のこもったシーンである。

 ホワイティは、ハナがパパからもらった札束を持って、白人客しかいない階下の酒場に降りていく。それも堂々と降りていく。
 ホワイティが姿を見せると一瞬、沈黙が走るが、彼はウィスキーを一瓶注文。皆さんが注目するなか、自分の意気を見せつけるためなのか、それとも自分への景気づけなのか、このウィスキーの瓶の半分を、一気に飲み干す。
 そして彼は、以前自分を酒場から叩き出した暴力男ブッチが賭けポーカーをしている席に加わろうとする。ブッチは金を持っているかと尋ね、ホワイティが札束を見せるとポーカーに加わることを許される。こうしてホワイティは、はじめて白人の皆さんに一人前と認められることになるわけだが、そう認められるのは、彼が大金を持っているからだ。
 ホワイティが白人の仲間入りをしている傍らで、ハナは「昨日は赤貧、今日は大金持ち」と、ホワイティと賭けポーカーにひっかけながら「百万ドル」ソングを歌うのだが、彼女の振りつけは実にわざとらしく可笑しく、とてもいい。こういう場面がなければ、映画はひどく重苦しいものになっていただろう。


ホワイティの自己解放Ⅱ

 狂ったホワイティのご主人様一家では、とうとう狂気の家族ドラマが繰り広げられる。
 息子フランクが、クー・クラックス・クランの白頭巾をかぶって、キリスト磔像にぶつぶつと祈りを捧げている。その姿を見たネグリジェ姿の継母キャサリンが「キャハハハハァー!あんたって馬鹿みたい~!」と笑いこける。侮辱されたフランクはナイフを握り、キャサリンを刺し殺そうとするのだが、そこにパパが登場。パパはフランクを制止、ナイフを捨てさせ、彼にのしかかって動けないようにする。
 いっぽう、召使の制服姿のホワイティが拳銃に弾丸を詰め、広間に入室、障害児デイヴィが彼に同伴する。二階のフランクの部屋から広間によたよたと降りてきたパパは、ホワイティに「息子のなかで、俺の気骨を受け継いだのはお前だけだ。フランクは病んでいる。デイヴィも病んでいる。キャサリンはハイエナだ。みんな殺してしまえ!」と命令、「財産はみんなお前にくれてやる!」とのたまったところで、ホワイティは、はじめてパパの命令に背き、パパご本人に二発の弾丸を撃ち込んで射殺する。
 ホワイティはさらに、階段を下りてきた継母キャサリンも、自室にいた異母兄弟フランクも一発で殺す。デイヴィはホワイティのあとをずっとついていく。ふたりが厩に入ると、薄弱児デイヴィはホワイティに死を懇願する眼差しを送り、ホワイティは彼も射殺する。デイヴィは自分一人では生きていけないことを、ちゃんとわかっているのだ。ということは、薄弱ではないということでもある。
 こうして冒頭のタイトル・ソングで予告されていたように、パパも継母も異母兄弟もご主人様一家はみんな死ぬ。
 このようにしてホワイティは、ご主人様一家を皆殺しにし、そこから自分を解放したのだが、彼が本気で解放を望んでいたかどうかはわからない。けっきょくのところ、それまで忠誠を誓っていたホワイティがご主人様一家を殺すのは、抑圧打破のためでもなく、自己解放のためでもなく、彼らがひどい奴らだと判明したからにすぎない。
 それにハナからパパの陰謀と殺人の話を聞かされなければ、ホワイティは、そのまま忠実な召使に留まっていただろうし、ここまで奴隷根性が染みついているこの男が、本当に自分を解放できたとは思えない(というのが正直な感想である)。


ホワイティの自滅

 舞台は不毛の砂漠。ホワイティとハナがいる。どうもふたりは、ハナの新しい仕事場のシカゴに向かったわけではなく、着の身着のまま砂漠に逃れてきたようだ。
 砂漠で待っているのは飢えと渇き。最後の水を飲みほしたホワイティは、ハナと死のダンスを踊る。
 エンディング・チューンは、ハナが酒場で歌っていたソング「一緒にはやっていけない」。今回はホワイティ役のギュンター・カウフマンの歌声で聞こえてくる。

  一緒にはやっていけない
  君の生き方とぼくの生き方じゃ
  一緒にはやっていけない
  どんなに陽が輝こうとも
  さようなら、愛しい人よ、さようなら
  一緒にはやっていけない
  君の生き方とぼくの生き方じゃ

 このお別れソング、ホワイティとハナの劇中の関係のことを歌っているようにも思えるし、監督ファスビンダーと主演者カウフマンの現実の関係を暗示しているようにも思える。あるいは両方にひっかけられているのかもしれない。解釈次第である。
 とにかく一緒にやっていけないホワイティとハナも、ファスビンダーとカウフマンも、その関係は不毛の砂漠で終わるのである。
 というのが大体のお話。

 さて、それまで無言のまま、映画に見入っていた猫のミケの感想をきいたみたところ、「最初観たときは、退屈で退屈でしかたがなかったわ。でも見直して、この映画のテンポに慣れてくると、いろいろと見えてくるものがあるわね。役者さんがしゃべってなくても、映像や音楽が話しているみたいで、けっこうおもしろかったわ。また観てみようかしら」とのことであった。





1 Michael Töteberg (Hg.): Fassbinders Filme 2. Frankfurt am Main 1990, S.252
2 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『映画は頭を解放する』、勁草書房(1998)、161頁
3 『ホワイティ』の撮影現場の模様については、関係者のペーター・ベアリング、ミヒャエル・バルハウス、ハリー・ベーア、クルト・ラープが、それぞれの著書のなかで回想している。Peter Berling: Die 13 Jahre des Rainer Werner Fassbidner. Überarbeitete Taschenbuchausgabe. Belgisch Gladbach 1995, S.96-115; Michael Ballhaus: Bilder im Kopf. Die Geschichte meines Lebens. München 2014, S.73-82; Harry Bear: Schlafen kann ich, wenn ich tot bin. Das atemlose Leben des Rainer Werner Fassbinder. Köln 1982, S.40-54; Kurt Raab/Karsten Peters: Die Sehnsucht des Rainer Werner Fassbinder. München 1982, S.150-155
4 Ballhaus 前掲書S.73ff
5 Ballhaus 前掲書 S.11 ff.ミヒャエル・バルハウスのお父さんもお母さんも舞台俳優で自分たちの劇団を組み、伯父さんのカール・バルハウスは映画にも出演し、『嘆きの天使』(1930)で、エーミール・ヤニングス演ずるウンラート教授に英語の発音を直される生徒を演じた人でもあった
6 Ballhaus前掲書 S.73ff
7 Ballhaus前掲書S.72-76
8 バルハウスより4歳年上でそんなに歳の変わらないマイク・ニコルズの本名は、ミハイル・イーゴリ(またはミヒャエル・イーゴア)・ぺシュコフスキー。バルハウスと同じベルリン生まれで、お父さんは革命を逃れて亡命してきたロシア人、お母さんは社会思想家として有名なグスタフ・ランダウアーの娘でドイツ人。ユダヤ系だったため子供のころ家族に連れられてアメリカに亡命した。ニコルズは『ワーキング・ガール』(1988)の撮影の依頼を電話でしてきたとき、バルハウスにドイツ語で話かけてきたという。バルハウスによれば、ニコルズは、自己中の塊のようなファスビンダーやスコセッシの対極にある監督で、個人的にもとても好ましい友人関係を持てたとのことである。Ballhaus 前掲書S.184ff
9 ヴォルフガング・ペーターゼンは、バルハウスが1967年から70年にかけてベルリン映画テレビ・アカデミー(dffb)で教えていたときの学生だった。Ballhaus, 前掲書S.60, 240ff
10 ローベルト・フィッシャーのドキュメンタリー映画『Fassbinder in Hollywood』(2002)におけるバルハウス・インタヴュー
11 Ballhaus 前掲書S.73
12 Berling 前掲書S.97
13 Berling 前掲書S.100-101; Ballhaus 前掲書 S.77
14 前掲書 Peter Berling: Die 13 Jahre des Rainer Werner Fassbinderのこと。ペーター・ベアリングの経歴や実績については、本人のサイトをご覧いただきたい
15 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第1巻、boid (2013)、302-303頁
16 Wilhelm Roth: "Kommentierte Filmografie” in Peter W. Jansen/Wolfram Schütte (Hg.): Rainer Werner Fassbinder: 2. Auflage. München 1975, S.108
17 Thomas Elsaesser: Rainer Werner Fassbinder. Berlin 2001, S.435
18 Töteberg 前掲書 S.281
19 Rainer Werner Fassbinder: The Anarchy of the Imagination. Baltimore 1992, p.106
20 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第3巻、boid (2015)、236頁
21 Rainer Werner Fassbinder: Fassbinder über Fassbinder. Frankfurt am Main 2004, S.358-359
22 ハナ・シグラが出演者を降りた『アメリカの兵隊』では、イングリット・カヴェーンが歌姫としてこのソングを歌う。「ファスビンダーの映画世界」其の八、『アメリカの兵隊』を参照
23 Ballhaus 前掲書S.80-81
24 DVD“Whity” (Phantom)におけるウリ・ロンメルのコメント;ローベルト・フィッシャーのドキュメンタリー映画『Fassbinder in Hollywood』(2002)におけるミヒャエル・バルハウスおよびウリ・ロンメルのインタヴュー





明石政紀(Masanori Akashi)
著書に『ベルリン音楽異聞』(みすず書房)、『ポップ・ミュージックとしてのベートーヴェン』(勁草書房)、『キューブリック映画の音楽的世界』、『フリッツ・ラング』(以上アルファベータ)、『ドイツのロック音楽』、『第三帝国と音楽』(以上水声社)、訳書にファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』全3巻(boid)および『映画は頭を解放する』(勁草書房)、ボーングレーバー『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない』(ベアリン出版)、ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』(みすず書房)、サーク/ハリデイ『サーク・オン・サーク』(INFAS)、ケイター『第三帝国と音楽家たち』(アルファベータ)ほか。賞罰なし。

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