
日本停滞考
文=大寺眞輔
むき出しの硬質な観念性。たとえばアラン・レネやブニュエル、パゾリーニ、大島渚らの作品に私たちが惹きつけられる大きなきっかけとなったそれは、近年の日本映画から失われて既に久しい。映画はあたかも、学校や職場における距離の近い友人関係のように、理解され共感され親しみを感じられることにのみ価値を求めているかのようだ。私たちをうっすらと支配するこうした厄介な「親密さ」の中、映画学校を求心力としたエコールや他の映画作家たちとの友人関係から遠く離れた水戸という場所を拠点に、鈴木洋平はその長編処女作『丸』を撮り上げた。それはシネアストオーガニゼーション大阪(CO2)の助成を受け大阪市西成区で撮影された作品だが、しかしそれでもやはり、系譜や影響や共闘関係よりは孤独と逸脱を強く感じさせるものである。しかも、単なる孤独ではない。栄誉ある孤立である。
PFF入選作品として上映されて以来、東京では一度も上映されたことのない『丸』だが、国外ではニューヨークのリンカーンセンターとMoMAが主催し北米における新人監督登竜門となっている「New Directors/ New Films」(最近ではアナ・リリ・アミリプールやジョエル・ポトリカス、アレックス・ロス・ペリーらが注目された)に選出・上映されている。さらには、国際的なシネフィルのバイブルと言うべき「Filmcomment」誌に長文インタビューまで掲載されたのだ。私たちは、「キネ旬」にも「映芸」にも登場しない新人映画作家のインタビューを、いきなり「Filmcomment」で読む時代に生きている。その逆、すなわち日本の国内映画メディアで持て囃される映画作家たちが国際的に全く認知されていない現状など、もはや取るに足らないことではないか。
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