ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの著書『映画は頭を解放する』(勁草書房)やインタヴュー集『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』(2013年に第1巻、2015年に第2・3巻(合本)発行)の訳者・解説者である明石政紀さんが、ファスビンダーの映画作品について考察していく連載「ファスビンダーの映画世界」。今回からはドイツの作家マリールイーゼ・フライサーに影響を受けた、あるいは彼女の戯曲を映画化した2作品を取り上げていきます。まずはタイトルバックにフライサーへの献辞が記された『出稼ぎ野郎』(1968)について。同作はファスビンダー初期作品の中で公開当時に最も高い評価を受けた一方で、ファスビンダー自身はあまり気に入っていなかった作品のようで――
文=明石政紀
戯曲の映画化二作、『出稼ぎ野郎』と『インゴルシュタットの工兵隊』、またはフライサー
1969年から1970年にかけてのアンチテアーター時代、ファスビンダーが映画化した戯曲は二作ある。自作の『出稼ぎ野郎』(1969)と、マリールイーゼ・フライサーの『インゴルシュタットの工兵隊』(1970)の二作である。
この時期、よく「映画」に分類されるゴルドーニ原作/ファスビンダー翻案のテレビ演劇『コーヒー店』(1970)もつくられているが、こちらは「戯曲の映画化」というより、テレビ・スタジオで収録された「演劇の映像化」で、発想も条件も違うこうした「演劇の映像化」を映画とするのは少々乱暴なことだし、ファスビンダーもテレビ演劇を映画とは見なしていないので、ここではとりあえず棚上げすることにしよう。
さて、このふたつの戯曲の映画化は、スタイル的にはかなりの差異をみせながらも、両作を結びつける大きな要素がある。
それが、ファスビンダーが大きな感化を受けたという『インゴルシュタットの工兵隊』の原作者マリールイーゼ・フライサー(1901-1974)の存在だ。
ファスビンダーの『出稼ぎ野郎』の文体がフライサーの影響を受けていることは、双方の戯曲を読み比べてみればよくわかるし、よそ者が混入してくることで、単調、硬直、閉塞と三拍子揃った地元社会の姿が浮き彫りにされるという点でも両者は似ている。そしてファスビンダーの『出稼ぎ野郎』は、戯曲版、映画版ともどもフライサーに捧げられている。
わが国では、たぶんドイツ文学関係者以外ほとんど知られていないとおぼしきこのマリールイーゼ・フライサーについては、次回の『インゴルシュタットの工兵隊』の項でもうちょっと触れることにし、まずは『出稼ぎ野郎』の話から。
其の一、『出稼ぎ野郎 Katzelmacher』
カッツェルマッハーは「猫作り」にあらず
『出稼ぎ野郎』の原題は「カッツェルマッハー Katzelmacher」である。なんとも奇妙な言葉だ。
この語の後半のマッハーは「作る者」の意で、シューマッハー(Schumacher)はシュー(靴)とマッハー(作る者)で靴職人、フィルメマッハー(Filmemacher)は、フィルメ(映画の複数)とマッハー(作る者)で映画作家や映画監督となり、何かを作る者であるのはわかるのだが、前半部分のカッツェルの意味がわからない。手元にあるドゥーデン・ドイツ語一般辞典第5版[*1]をひもといてみても、カッツェルKatzel なる語は載っていないし、そもそもカッツェルマッハー自体の記載さえない。
こうして、「カッツェルを作る者」がどうして「出稼ぎ野郎」に化けるのかという設問は難関にぶちあたり、お手上げ状態になりそうになったとき、わが家のマルチリンガル・キャットたるミケの声があがった。
「ドイツ語で、猫はカッツェKatzeでしょ。だからカッツェルってその変形なんじゃない?」
「うーむ」
「もしカッツェルが猫の意味だったら、カッツェルマッハーって、猫作りってことになるわね。猫を作るのは猫の親。だから親猫。いや、猫というこの世でももっとも美しい生き物をおつくりくださった創造主のことかもしれないわ」
「うーむ」
「でも、それがなんで『出稼ぎ野郎』なんて、ひどい訳になるのよ!! これ、とんでもない誤訳なんじゃないの?! それに人間って、『猫に小判』とか『猫の額』とか、猫を馬鹿にした表現ばかりつくっているじゃない。ほんとに人間ってひどい!!!」
と、ミケは勝手に怒り出し、ぷんぷんしながら、お散歩に出かけてしまった。
じつは内心、ミケの「猫作り」説は、残念ながらどうも説得力が希薄だと思っていたところ、そのうちこの問題を解く鍵は、「猫も杓子も」に関係していることが判明した。すなわちカッツェルマッハーとは「猫作り」ではなく、「杓子作り」のことだったのである。手元にありながら手元にあることを忘れていたクルーゲ・ドイツ語語源辞典[*2]が偶然目に留まり、これをひもといてみたところ、「カッツェル」とは、スープやミルクを掬う木製のお玉杓子を指す方言で、これを作って行商していた南チロルのロマンス語系ラディン語話者の住民が「カッツェルマッハー(お玉杓子作り)」と呼ばれるようになったとのこと。それがイタリア語を話す者の意に転用され、50年代西ドイツの「奇跡の経済復興」のさなか、人手不足を補うために外国人労働者第一陣として大挙して招致されたイタリア人、ひいてはその後やってきた南ヨーロッパ人出稼ぎ労働者全般に対する蔑称として、ドイツ語圏南部で大いに口にされるようになったという。
というわけで、これから察せられるように、『出稼ぎ野郎』は、南欧系外国人労働者が関係するお話ということになる。とはいってもこの蔑称、今ではほとんど口にされることがなくなったらしく、現今のポリティカル・コレクトネス世界にもお似合いではないし、ドイツの代表的国語辞典である上記のドゥーデンにも載っていなかったのは、そのせいなのかもしれない。今やひょっとするとこの言葉が一番発せられる頻度が高いのは、ファスビンダーの映画が話題にのぼるときかもしれない、などと思う今日この頃である。
といったことは、当初予断を許さなかった余談として片づけることとし、先をつづけることにしよう。
『出稼ぎ野郎』には前述のとおり、戯曲版と映画版がある。
2018年12月号
【重要なお知らせ】 boidマガジンは下記URLの新サイトに移転しました。 h…
読者コメント