boidマガジン

2015年09月号 vol.3

【再掲載】サミュエル・フラー自叙伝抄 第1回 (遠山純生)

2015年09月19日 22:21 by boid
boidでは12月に、遠山純生さんの翻訳による映画監督サミュエル・フラーの自伝『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』(原題”A Third Face:MyTale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”)を刊行予定です。そのイントロダクションとして、全5回に渡ってその自叙伝の一部をboidマガジンの読者の方だけに先行公開します! まずは「幸運の一撃」と題された第1章から――
9月12日(土)~23日(水)にぴあフィルムフェスティバル内で行われるサミュエル・フラー特集上映を記念して、9月中は連載全5回を無料公開します!


※各回へのリンクはこちら↓
【第2回】 【第3回】 【第4回】 【第5回前編】 【第5回後編】




著=サミュエル・フラー
訳=遠山純生


 以下に訳出するのは、2004年に原著が刊行されたサミュエル・フラーの自叙伝"A Third Face:My Tale Of Writing, Fighting, And Filmmaking”第1章の全文。初めて言葉を発した幼少時から、危うく生命を落としかかった晩年にいたるまでを、時制をダイナミックに往還しつつ回顧したもの。最後に自叙伝執筆にあたっての態度表明、および己の人生を共有し「喜びを分かち合ってくれる誰か」としての読者への呼びかけがなされる。(訳者)




第1章
幸運の一撃


ハンマー(金づち)!
 生まれて初めて口をついて出たのがどうしてこの言葉だったのかなんて、わかるわけがない。もうすぐ5歳になろうという頃までわたしが一言も口をきかなかったことの方が、それよりずっと不可解なのだが。兄弟姉妹、とりわけ母レベッカは、わが尋常ならざる沈黙を相当気に病んでいた。彼らはみんな、この子は知的障害なのではないかとか、あるいはなお悪いことに、お話にならないほどの馬鹿なのではないかとの疑念を抱いていたのだ。だからわたしがついにこの─―いかにもけんか好きという感じの─―2音節を口にしたとき、一家全員が喜んだ。
 1917年のあの夏以来80年間にわたって、わが遅ればせのしゃべり始めを埋め合わせてなお余りある歳月を過ごしてきた。わたしは物語作家(ストーリーテラー)だ。物語は、たいてい自分の経験から引き出したものである。大きくて目立つ見出しの下に印刷された新聞記事を、翻案した物語群もある。いろいろと状況を想像してこしらえあげたお話の大半は、上等の葉巻を吸いながら古びたタイプライターのぐらぐらするキーを叩きつつ思いついたものだ。登場人物たちをでっちあげる場合であっても、彼らは感情面から言えば嘘偽りのない連中だった。わが物語に登場するのが売春婦だろうが将官だろうが、たれこみ屋だろうがおまわりだろうが、連中を現実に存在する本物として書こうと努めたのだ。英雄あるいは愛国者として書こうともしなければ、愛らしい人物として書こうともしなかった。リアルに書こうとしたのだった。彼らの素性やあこがれに忠実でいようとしながら。
 執筆中に何かと生ずる問題を解決するために、自分の物語に耳傾けてくれる者にならほとんど誰彼かまわず話して聞かせたものだった。時には4時間休みなくぺちゃくちゃしゃべり通しで。物語を書いていると、食べることも小便をすることも眠ることも忘れてしまった──葉巻を吸うこと以外の、ありとあらゆる身体機能を忘れてしまったのだ。いろいろとお話を語り続けたおかげで、血圧が上がったに違いない。それだけでなく、1994年に見舞われた発作の一因となった可能性もある。当時われわれはまだパリに住んでおり、バスティーユ広場からほど近い労働者階級居住区、すなわちパリ12区にある質素なエレベーターなしアパートに引っ越したところだった。季節は美しい秋、日曜の朝のこと。クリスタと一緒にルイイ通りを散歩していた。わたしが愛してやまない、美味しいアーモンド入りクロワッサンを二つ三つ買いに行くために、夫婦気に入りのパン屋へ向かっていたのだ。その後われわれは腕を組み合って、さまざまな市場やビストロやカフェの前を通り過ぎながら、61番地にある住処まで歩いて戻った。
 われわれは朝食を、アパートの階下に位置する塀で囲まれた中庭にある小さなピクニック・テーブルで食べることにした。猫たちがだらりと寝ころび、濡れた洗濯物が風にはためき、親切な隣人たちが食料雑貨類の入ったバスケットを手に帰宅する、画趣に富んだ場所だ。クリスタがカフェオレを作って持ってきてくれた。突然、わたしは気絶した。卓越したフランス人消防士たち(レ・ポンピエ)がクリスタの緊急電話に応じ、近くにあるサン=タントワーヌ病院へとわたしを急送してくれた。
 続く数か月間のことは、いまだによく思い出せない。看病してくれたフランスの医師たちや看護婦たちに感謝する。彼らは素晴らしい男たちであり、女たちだ。われわれはフランスで、十年以上にわたって社会保障税を支払っていたから、サン=タントワーヌ病院およびそれに続くパリ郊外にあるリハビリテーション・センターでの滞在費は、賞賛に値するフランスの健康保険制度によって全額補償された。
 発作に見舞われたにも関わらず、どうして生きながらえることができたのかはわからない。まだ死ぬべき時ではなかったということだ。ほかにも九死に一生を得たことは何度かあった。たとえば第二次世界大戦中に、ナチのルガーから発射された流れ弾によって胸を負傷したりしたのだ。発作の5年前には、大動脈に動脈瘤を患った。ほんの数か月前にも、片肺に膿瘍ができているのを医師に発見され、治療してもらった。話を戻すと、パリの病院でどうにかまだ生きてはいたが、発作のおかげで脳が混乱して舌がまわらず、人が聞いて理解できる言葉を一語たりとも発することができなくなってしまった。話すことができなくなったのだ。ちょうどマサチューセッツ州ウースターにおける、幼いわたしがそうであったように。ああ、人生がもたらす些細で素敵な皮肉の数々よ! フランス人が「変われば変わるほど元のまま(プリュ・サ・シャンジュ、プリュ・セ・ラ・メム・ショーズ)」と言う通りだ[フランスの批評家・ジャーナリスト・作家ジャン=バティスト・アルフォンス・カール(1808年~1890年)の警句]。
 病院では、聖書を声に出して読むことを好む、とても優しい黒人男性──セネガル出身だったと思う──と同室だった。食事時間には、この男に食べさせてもらったりしたのだ。バスルームへ行くときには、わたしが歩けるように腕を取って支えてくれた。そして身体を洗えるよう、石鹸とお湯をくれたのだった。親切にしてもらったのだが、ちくしょうめ、わたしは彼の名前すら知らないときている! 当時わたしは、自分の名前さえも思い出せなかったのだ。けれどもあの黒人男性のことも、彼が同室の患者に対して示してくれた思いやりも、決して忘れはしない。深みのある豊かな声をしたあの男は、必ず最初に「友よ(モナミ)」と言ってからわたしに話しかけた。長く生きてきて数多くの良き友人たちに恵まれたが、名前のわからないわがセネガル人ルームメイトは、最良の友人の一人だった。
 クリスタと娘のサマンサは、たいそう悲しんでいた。二人は毎日病院にいるわたしに会いにきた。そして、わたしがしゃべれないことに対してと同じくらいに、今やマッチ棒並みにしおれてしまったわたしの脚に対してショックを受けていた。もう回復しないのではないかと怖れていたのだ。かなり滅入ってはいたけれども、自分が死ぬとは一度たりとも考えなかったことを覚えている。地球上における自分の持ち時間が尽きてしまったらどうなるのだろうと考えて、おののくこともしなかった。死はたんに、われわれの次なる冒険にすぎない。とらえがたいかたちであれおおっぴらにであれ、文化は人間の死ぬべき運命から生ずる不安を利用して、われわれを操ろうとしている。だが死を回避することはできないのだ。一方わたしは85歳になるけれども、不安など何ら感じてはいない。ただ感謝の念──すでにかなり長い年月を生き延びてこられたことへの感謝、愛する妻と娘に恵まれたことへの感謝、これほど実り豊かで創造的な人生を送れたことへの感謝──あるのみである。病は死への恐れを抱かせるよりは、わが幸運を改めて胸に刻ませてくれたのだった。
 発作に見舞われた後、真っ先に考えたのは最愛の母レベッカ、兄弟のレイとトムとヴィング、姉妹のイヴリンとティナとローズが今やみんな逝ってしまっている事実だ。この事実を除いたわが人生の残りの部分は、現像液に浸した印画紙上の映像のようにゆっくりと再現され始めた。心的能力は回復したものの、うまくしゃべれないままだし、かつては脚に力を与えてくれた引き締まった筋肉は安宿の売春婦並みに気まぐれになってしまった。にも関わらず、生きているのは楽しい。死の暗いとばくちすれすれのところでダンスした後だけに、もう一度バラの香りを嗅げるのが嬉しくてたまらない! 毎日が天からの贈り物みたいな気分だ。一日24時間、生きていることのありがたみを噛みしめている。とはいえまあ、われわれみんながそのことをいつも実感しているわけではないかもしれない。死の瀬戸際まで行くことほど、人生をめぐる真理を垣間見させてくれるものはないのだ。
 わが体調の回復を促進するべく、われわれはみずから好んでしたフランスでの異郷生活に見切りをつけ、カリフォルニアへ戻ることにした。こころのなかでは、わたしは決してアメリカから離れたことはない。どこに住もうと、わが魂は断固としてアメリカ人のままだったのだ。毎年映画界への返り咲きを願いながら、ハリウッド・ヒルズにある小さな自宅に夫婦二人してしがみついていた。けれども映画にせよ小説執筆にせよ、企画の話はフランスをはじめとする海外の国々で持ち上がり続けていた。いやそれどころか、われわれの娘はパリでホジキン病の治療を受けていたのだった。だから、夫婦でマリー・キュリー病院[パリにあるキュリー研究所が経営するクロディウス・レゴー病院(癌専門病院)のことを指していると思われる]とその有能な医師たちの傍に居続ける必要が生じた。
 ローレル・キャニオンにあるわが家のことは、愛情をこめて"ぼろ家(シャック)”と呼んでいた。わたしはこの家のガレージを、本や新聞・雑誌の切り抜きや写真やファイルや脚本や戦争の記念品や葉巻入れがぎっしり詰まった複数の本棚が並ぶ、平和な息抜き場所へと変えてしまった。ネズミにかじられた何冊かの脚本と、1994年の地震[1994年1月17日に発生したノースリッジ地震を指す]で落下してきた本に粉砕された地球儀を除けば、オフィスはほぼわたしが出て行ったときのままだった。まるで散らかり放題のロールトップ式蓋つき机から立ち上がって、たまたま13年間も続いてしまうことになるコーヒーブレイクに出かけていたかのようだったのだ。いやしかし、お家に帰るのがこれほど気分の良いものだったとは! かつてはサミュエル・ラングホーン・クレメンス[マーク・トウェインの本名]のものだったこともあるわが家の食卓は岩石のごとく堅牢で、家族や友人たちとの長時間におよぶ食事に対処できる態勢がいつでも整っていた。マーク・トウェインの精神は生き続けていたのだ。
 発作は日毎の一刻一刻が尊いものであることを悟らせてくれただけでなく、自分には語るべき大きな物語がもう一つあると気づかせてくれた──わたし自身の物語である。陰鬱きわまる顔に世をすねたにやにや笑いを浮かべ、自らの死を思ってやきもきしつつこれといって何もしないでいるなんざごめんだ。いやはや、101歳まで歌い続ける覚悟のできた、アーヴィング・バーリンになった気分! わが生涯はどえらいお話になるぞ。なにしろ今までずっと、わたしは人生をあまりに忙しく生きてきたのだから。
 親愛なる読者諸氏よ、これからあなた方にわが生涯の物語を語って聞かせよう。あたかもわれわれが、わが家の食堂にあるマーク・トウェインのテーブルを囲んでいるかのようにして。このテーブルの周囲で、数多くのお話と笑いが分かち合われてきたのだ。わが素晴らしきクリスタが、驚くべき思い出の数々を徹底的に掘り下げる手助けをしてくれる。われわれは祓い清めるべき悪霊たちを見逃しはしないし、敗北や失敗を体裁よく見せる気もない。85年にわたって生きてきたなかでくぐり抜けた経験の数々を、活き活きとして力強く、肯定的な物語にするのが狙いだ。
 人間は死ぬ。みな同じ境遇にあるのだ。そしてわれわれ一人一人が、敗北も勝利もたんまり入った重荷を背負っている。その重荷を、微笑みを浮かべ、楽天的姿勢を固守し、残された人生を最大限に活用しつつ運んで行こうではないか。そう何度も敗北に打ち負かされるがままになってなるものか。
 わが人生の物語は、真実を求めてこの地球上をさまよい、数多の不運に見舞われながらも笑みを絶やさないカンディードのそれに似ている。それにまた、わたしにとって真のお手本はドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャであったのかもしれない。なにしろ思い出せる限りの昔から、わたしはさまざまな理想郷(ユートピア)を考えだし、自分が正しいと思うことのために闘ってきたのだから。偉大なるミゲル・デ・セルバンテスの精神にのっとって、続く物語をあなた方に供する。あなた方が何者であるか、そしてこの巨大な惑星上のどこで生きているかに関わりなく。
 「ひとりの男が天に登って広大な世界を見渡したとしても」とセルバンテスは書いた。「みずからの喜びを分かち合ってくれる誰かがいなければ、世界の美しさに対する感嘆の念も半減してしまうだろう」と。
 親愛なる読者諸氏よ、ここではあなた方こそ、その"誰か”なのだ。




サミュエル・フラー Samuel FULLER
1912年8月12日、マサチューセッツ州ウースター生まれ。本名はSamuel Michael Fuller。新聞記者、小説家、映画脚本家などを経て、1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。ジャーナリスティックな感性や第二次大戦従軍経験を活かし、常に脚本も兼任した監督作がとりわけフランスを中心に高く評価された。代表作に、『鬼軍曹ザック』(51)、『東京暗黒街・竹の家』(55)、『四十挺の拳銃』(57)、『ショック集団』(63)、『裸のキッス』(64)、『最前線物語』(80)、『ホワイト・ドッグ』(82)、『ストリート・オブ・ノーリターン』(89)などがある。パルプ小説的物語に、強烈な暴力描写・登場人物の心理探究・社会的不正に対する抗議を織り込んだ独特の低予算娯楽作品を数多く手がけている。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、65)、『ラストムービー』(デニス・ホッパー、71)、『アメリカの友人』(ヴィム・ヴェンダース、77)、『1941』(スティーヴン・スピルバーグ、79)など、俳優としての仕事も多い。1997年10月30日死去。


遠山純生(とおやま・すみお)
1969年愛知県生まれ。映画評論家・編集者。代表的な編著作に『紀伊國屋映画叢書① イエジー・スコリモフスキ』『紀伊國屋映画叢書③ ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(以上、紀伊國屋書店)、『ロバート・オルドリッチ読本①』『マイケル・チミノ読本』『イエジー・スコリモフスキ読本』(以上、boid)などがある。また翻訳書に『私のハリウッド交友録』(ピーター・ボグダノヴィッチ著、エスクァイア マガジン ジャパン)、『ティム・バートン』(マーク・ソールズベリー編、フィルムアート社)、『ジョン・カサヴェテスは語る』(レイ・カーニー編、幻冬舎/都筑はじめとの共訳)など。自身のHP『mozi』にて、映画をめぐる諸論考を発表。

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