boidマガジン

2018年02月号

宝ヶ池の沈まぬ亀 第20回 (青山真治)

2018年02月22日 01:05 by boid

青山真治さんによる日付のない日記「宝ヶ池の沈まぬ亀」第20回です。先月、一年がかりで取り組んでい小説の初稿を脱稿し、久しぶりに読書や映画・音楽鑑賞の時間ができた様子。シャーリィ・ジャクスンの小説『絞首人』やイーストウッドの新作『15時17分、パリ行き』、ラオール・ウォルシュ『暗黒の命令』、『イミテーション・ゲーム』(モルテン・ティルドゥム監督)のことなど。さらに愛猫こりんに関する驚愕の事実が発覚します。




文・写真=青山真治



20、再就職も楽じゃない日々のうたかた

某日、イエジー・スコリモフスキ『早春』がリバイバル公開されて好評の様子。若い人たちの感覚に刺激を与えているようで、なんだかこちらがウキウキする。大木こだま師匠の「忘れたくても思い出せない」という偉大なギャグがあるが、ある意味『早春』はそういう映画だという気がする。つまり、強靭な映画が存在する一方であまりの膂力ゆえに捕まえられず飛び去って行くような映画が存在し、『早春』は後者として最も激しい。
某日、東宝でのミーティングに行く前に、某鼎談の題材である某文献を精読。しかしそこに書かれたことにほぼ興味が持てず、困惑。その後バス・電車・電車・バスと乗り継いで成城。話はいわゆる仕切り直し。責任者に頭下げてほしいなどと望む気にもならず。その後の成城「庄助」での是安アニさんの独演会は見事であった。そしてサード井上の酔いっぷり。帰りにひとり、三茶でたこ焼きを食す。勝お勧めだが柔らかすぎてどうも。こないだのお好み焼きといい、関西人とはジャンクフード全般に趣味が合わないのかもしれない。資さんうどんはどうだろうか。いっぺんやつらに食わせてみたい。

東宝



某日、そして再び無産者に舞い戻り、ようやく落ち着いて読書できる時間ができた。京都に住み始めた頃から二年越しで溜めてうずうずしていたシャーリィ・ジャクスンに着手。まずは『絞首人』。静謐かつ荘厳な『冷血』が忘れ難い佐々田雅子パイセン訳。女性作家のこの柔軟な手触りを久しぶりに堪能。一気に読むのはもったいなくてちびちびと。合間にテネシー・ウィリアムズで唯一好みである『薔薇のいれずみ』の上演台本作成の続き。趣味で上演台本作りをやっているとたんに勉強になるが、一方で自分のシナリオが高速になりすぎる方向へ傾いているかもしれない。Pから「もっとわかりやすく」と諭されるが、わかっちゃいるけどやめられない。撮影を終えて田巻と編集している段階の頭で脚本を上げる、という傾向が是か非か、たしかに疑問ではあるが。いずれにせよ、何をするにも気の向くままの日々に心ならずもありついたわけだ。懐の心配はあれど焦っても仕方なし。
某日、大橋・中原と新年会を、ということで代田橋の沖縄タウンへ。と、駅で前田晃一氏とばったり。極狭のカウンターバーで一杯やってから、咲歩と合流。感動的なことに沖縄タウンには石垣名物オオタニワタリも池原酒造・白百合もあった。帰りに一人タクシーに乗って「鳥立ち」へ。一杯だけのつもりが寺脇研氏に遭遇、終電を逃す。
某日、九時半新宿郵便局集合で、飯能→つくば→有明という大移動のロケハン。面白いものではあった。しかし何といってもその途中、女優から来たメール。「こりんがびっこひいてたので病院に連れてった。足は大事なかったけど、こりんは・・・オスでした」その衝撃の報にしばし立ち直れず。いままでメスとして可愛がってきたのは何だったのか。いや、オスならオスでいいんだけど、なんだかね、釈然としないといえば釈然としないじゃないですか。夕方、勝と三茶で合流、串カツ屋へ行ったが、女優のブログに早速上がったそのネタで勝がさんざん大笑いしていた。その点ではまあよかった。

東京湾夕景



某日、そういえばTK引退とか。そうしたら西部邁氏が多摩川で自裁。SNSのTLを眺めるかぎり西部さんはどういう人物だったのかよく理解されていなかった人だという気がする。もうちょっと「BURA」なんかで話をさせてもらってもよかったかといささか後悔するけれど、もはやあとのまつり。TKの引退でうろたえた人々がいまさらのように文春砲を批判している。お気の毒であることに関してベッキーのときと何が違うのか、まったくわからない。この愚なる国の住人ということについて西部さんじゃなくても自裁したくなる。八〇年代の『朝生』に大島・野坂に続いて現れた気鋭の論客として西部さんがいたことを鮮やかに記憶している世代として、このことを重く捉えずにはいられない。
某日、1月22日、一面の雪。午後から降り積もり、中目黒まで打合せに出て戻って、暗くなっても熄む気配一向になし。2014年2月の『最上のプロポーズ』撮影中以来か。あのときドカ雪の中で「走る車内」を撮ったのはいま思うとバカなことだという気がする。深夜、いつしか熄んでいた。天から降った花に埋もれたように沈む街。いままでのようにこりんを可愛がれない自分の心の狭さをそろそろ反省し始めている。
某日、というわけで雪かきである。四年前に購入した器材を活用し、うちの前をひととおり。終わった段階ではそうでもなかったが、夜になるとどっと疲れてぼやぼや眠る。
某日、29日まで守秘と言われていたが、これがネットに公開されるのはずっと先なので大丈夫、ということでイーストウッド最新作『15時17分、パリ行き』試写。新しくできた虎ノ門のワーナー試写室の場所がわからず、道に迷って辿り着いたのが15時17分であったのは後で気づいたのだがそんなことはさておき。大変厄介な映画である。いろんな意味で非常に厄介だ。頭を抱えつつ家に帰ってネットを開くとツイッターに、今日がアンゲロプロスの命日である旨が上がっており、そこに「単純であることが最も難しい」なる金言が。これこそそういう作品である。イーストウッドが複雑であることはいまに始まったことではないが、これはもう限界を超えている。というのもものすごく単純にできているからである。その理由をパンフに書けという依頼だが、容易くできる話ではもちろんなく、ひたすらこの厄介さに悶々とする。老人にこんなことされてはたまったものではない。というよりこの老人力の凄みに相変わらずやられている。
某日、それはそうと、突然新しい小説を書き始めてしまった。もちろんまだまだメモ書き程度だが、ちょっと長くなりそうなもの。実は数年前からプロットはできていて、シャーリィ・ジャクスンと並べてチャンドラーを眺めているうちに、なんか書ける気がしてきたのがよくない。他にも書くべきものはいくらもあるのだが。またしても数多の案件と縫ってしまい、完成は遠い先になること必定。珍しくタイトル未定。そういえば『絞首人』の、命の終わりについて「もうこれ以上自分といっしょにいられることはないだろう」という表現に虚を衝かれた。このような考えは理に適っている気がする。

シャーリー・ジャクスン『絞首人』



某日、ウォルシュ『暗黒の命令』(40)。しばしば「骨太の演出」と言われるけど、ウォルシュは西部劇でさえ都会的に、つまり進歩的に作り上げる。我々がスピルバーグ的と考えるようなことを含めて、この後40年ほど一般に使われた技法はほとんどウォルシュによってすでに完成されていることがわかる。そして前年の『駅馬車』で始まったジョン・ウェインのスタイルをさらにブラッシュアップ、ここで完成させている。左右どちらかに歩き去る時、その方向に若干(大げさでなく)重心を傾ける動きもすでに始まっている。そしてウォルター・ピジョンの悪役の見事さとこの後も連綿と描かれることになる母性、あるいは女性による制御不能のDark Command。三〇年代のウォルシュをほとんど見ていないことが悔やまれる。ドロシー・マローン追悼でタシュリン『画家とモデル』がソフト化されたら、ついでにウォルシュの同名作も、とかいう気の利いたことが起きないだろうか。出たら両方贖うが。夕方、野中広務逝去の報。この人は中上健次という小説家のことを認識していただろうか。対談など残っていないか、気になる。ここ最近レトルトカレーのブームなのだが、コストパフォーマンスとしてセブンとニッスイのコラボシリーズが圧勝の感。へたに高い金払って外で食うなら、これでじゅうぶん。所謂パンチが利いてるというやつ。夜から朝にかけて気温が低すぎて、ほとんど布団にくるまっていた。月曜と水曜・木曜の午後は翌朝のゴミ出し用意含めた家事をやって、金曜の午後はどっと気が抜ける。どうせなら、と計画頓挫していたウォルシュ特集をいきなり始めた次第。今後も断続的に見ていくつもり。

ウォルシュ『暗黒の命令』



某日、といいつつ新しい映画も見る。『イミテーション・ゲーム』はチューリングの話というので見てみたが、よく出来たテレビドラマ以上ではないものの、嫌いにはなれない、というかここでのキーラ・ナイトレイは『ドミノ』とはまたべつの、羽毛のような軽やかさを見せて非常によい。チューリング役のベネディクト・カンバーバッチも悪くはないが、映画になるかというとさすがにそうはならない。一方のキーラは、いつでもキャサリン・ヘップバーンになってみせる用意ができている感じ。登場の瞬間に映画のトーンが変わるというのを久しぶりに見た。だからこの女優、悪くないと思うものの、ジョニデとやった海賊映画シリーズを除くと代表作に恵まれない気がして残念だ。黒沢さんの映画に出ればいいのに、とかないものねだりなことをつい考えてしまう。『散歩』がアメリカでリメイクされる際はぜひキーラ主演で。ところでこの作品も、というかこれの方が先行する形だが、第二次大戦下の英国である。このブームはどこから始まったか。これもやはりチューリングということで、つい『重力の虹』との関係を考えてしまう。続けて『王になろうとした男』。いま見ると要するにそれはキプリングとコンラッドの違い以上にヒューストンとコッポラの違いだと思えるが、逸脱と見えたコッポラが実はより前近代的な叙事をものにすることで際立ってしまったのであり、どれほど周縁的な要素を取り入れようとヒューストンはあくまで近代を逸脱するものではなかった。もちろんそういうヒューストンを好きでいることに変わりはないし、コネリーもケインも実に麗しいのだが、それでもこの作品が『地獄の黙示録』の不気味な真剣さによって凌駕された部分は大きい。この真剣さを本気で支持したことは一度もないつもりだが、それでもやはりあそこで映画が一皮剥けちまったことは否定できないだろう。ちなみに、またしても英国だったのはあくまで偶然である。
某日、突然だが鯰を食いたい(食ったことある)と異常に渇望し、もはや鯰釣りに出かけてもいいのではないか、そのために道具一式用意しようか、とさえ考え込むようになったのは当然、鰻はもう無理、という現実的理由に因るのだが、しかし調理法がわからない。きっと臭いを抜いたり、毒気(環境的な)を抜いたりする必要があるはずだ。さらにどこで釣れるのかもわからない。しかし鯰は美味い。泥鰌を好む向きもあるだろうが、鯰の方が美味いと思う。鰻を外せば、鮟鱇・鯰・スッポンの順。鯰料理の店を探してみようか。とググってみたら埼玉県吉川市に鯰料理の店が集中していた。これは広田智大を動員して行く他ないんじゃないか。なお鰻の代わりということではない。あくまで鯰は鯰。
某日、3D女優辻凪子はん、目黒再上陸。そのうちわれらがMCユーリンチーこと安田雄一郎も現れる。三人でわらわらと話していると楽しすぎて、つい映画の時間を忘れてしまった。ということでジェイムズ・グレイを見逃す。
某日、甫木元空、目黒再上陸。それ以上に重要人物が現れたが、あえて秘す。夜半、炎屋にて甫木元・広田と。話題はもっぱら甫木元の新作(歌)の「デモのデモ」について。かなり出来が良いと褒めてかまうまい。
某日、三日続けて目黒駅前、演出助手・平井と待ち合わせて、某社でワークショップの打合せ。夜は三茶シアター・トラムにて『R&J』という、四人の若手男優がどこかの寄宿学校生に扮して夜中にロミジュリを本読みする、という舞台。この設定に慣れるまで違和感がないではなかったが、慣れると案外悪くない。終演後、またも勝と編集Aを誘う。今夜のゲストはAの女上司。大いに盛り上がったが、呑み過ぎた。
某日、というか2月1日、再び雪が降る。この日の雪というと必ず九二年、西山組『ぬるぬる燗々』初日を思い出す。私の初チーフ助監督。スケジュールがいきなり崩壊した衝撃は忘れられない。激しく遅延する電車を乗り継いで現場に四時間近く遅れて到着したときは、スタッフ全員半笑いだった。さらに翌朝、地震で再び電車は止まった。そして死ぬほど寒い多摩川河川敷での徹夜。思えば過酷なロケだった。
某日、再び観劇。新宿御苑のサンモールスタジオにて『目頭を押さえた』。なかなか良い出来の戯曲だと思われた。方言が、おそらく西の言葉だと思っていたらどうやら宮崎弁らしい。喪屋という風習が本当にあるのかどうか、とか気になりはしたが、いずれにせよ柳田を意識させる題材として、興味深く見ることができた。同行した齋藤Pと御苑にて晩飯。
某日、雑誌「シネ砦」の座談会で新宿西武にて安井豊作・廣瀬純・川口・渥美と大いに語らう。終わって「犀門」へ移動。さらに語らい、とうとう終電。終わらないメンツというのはあるのだ。深夜、せこい話だが、恵投下さるか、と期待した書籍を諦めて数冊贖う。しかし「映画芸術」が最新号を送ってこないのはどうも解せない。読んでおかないといろいろ差支えあるはずだが。かなりの難産の末『15時17分、パリ行き』論、脱稿。
某日、疲労困憊で日がな寝て、夜中にようやく作業続投。カラックス新作ミュージカル、ルーニー・マーラとアダム・ドライバー主演の報。横綱相撲とはこういうこと。
某日、下北沢で久しぶりの「アナログばか一代」。ファッツ・ドミノから紐解くニュー・オリンズ・サウンドということだったが、アラン・トゥーサンが乗ってるとはいえモービル盤『ロック・オブ・エイジズ』のDon’t do itの一発目のスネアからそもそも度肝を抜かれる。さらに、はっぴいえんどの「さよならアメリカ さよならニッポン」のあまりの解像度の良さに、もう何が何だか。ドミノのシングルも素晴らしくて、かかったうちの二曲高校時代バンドでカバーしていたことを思い出す。私は意外に子供の頃からニュー・オリンズっ子だったのだと。よれよれになって朝まで呑んで、帰宅してからもとにかく音楽。甫木元の曲をさらに聴きこんで、各方面に連絡し、セッションの予約にまで持ち込む。

『ロック・オブ・エイジズ』&『ハッピーエンド』(CDですが)



某日、「映画芸術」届き、すぐ「アナばか」でもぽっこりと席についていた樋口泰人による『リバーズ・エッジ』評を発見、その内容に驚愕、もはや「評」の域を越えたこの文章の存在に慄然として、他にも読むべき個所を重々承知しながら、床に放りだす。まるでこの二十年の自分を一言で言い当てられた気がした。数日後、再開。問題は菊池信之氏の声明文である。文中に私の名も記されている以上、何か書かなければなるまい。だがこの問題を知ったときから考えて暗澹としていたのだが、個別誰某への批判云々よりもまず、私も菊池さんももはや「古い人間」ということになってしまったのか、ということ。しかも私たちよりも古いはずの人たちと私たちより新しいはずの人たちの両方から挟み撃ちにされる形で私たち「だけ」が「古い人間」になってしまったような。それはちょうど、樋口泰人が『リバーズ・エッジ』について書いた文章の中で語られる「90年代」そのもののような気さえする。私と菊池さんが二〇〇〇年代に育んだ、映画における「音響」という概念は、緩やかな公共性のようなものを波及させ、観客と共有できたつもりだったが、いまやそれは個人の趣味、というのはつまり管理体制(プロデューサーや監督という個としての存在または技術)に回収されてしまっているのではないか、そしてそのことは仕方ないと思う反面、まあわかられなくてもいいや、という結論にしか達しないことが残念だ。私と菊池さんだけが河原で迷子になっている気がする。樋口さんの爆音しかり。
その上で、この過酷を生きよ、とつきつけてくるのは、誰よりも稲川方人だ。アニメは映画にあらず、も、ワーストありき、も。私が開きたいもの、開こうとしたものを詩人は暗に、閉じよ、と、もう一度さらに閉じよ、と言っている気がする。秘仏こそがこの世を照らすのか。先日の安井・廣瀬との座談でも、密教か否かが問題となったが、私たちには閉ざされることに耐えることでしか存続はありえないのか。なぜか『ノスタルジア』を思い出すが、あれが現実なのか。この反感装置にのるかそるか。懊悩したまま時だけが経つ。

「映芸」の菊池さん



某日早朝、ふと『クリエイター』でヴィンセント・スパーノが瀕死のヴァージニア・マドセンに記憶や夢を語り続ける場面を思い出す。それを進言したピーター・オトゥールにも何の確信もなかったはずだが、奇跡は起こる。やはり映画で最も感動的なことは奇跡が起こることかもしれない。その感動によって人生を続けることができる。あれはもしかすると『ガントレット』の最後で、撃たれたクリントを罵りつつ呼び起こすソンドラ・ロックと同じかもしれない。『クリエイター』はつい先日ブルーレイが出て、入手はしたけどまだ見直してはいない。監督のアイヴァン・パッサーはフィンランドで会ったけれど、真の人格者だった。
某日、昼過ぎに目覚めると三日前からよろしくなかった体調がさらに悪化、これはもしやと病院で検査したが、インフルではなかったので一安心。ただ発熱はしており、ひたすらぐったり。だから明け方までなんて無理なんだよな。わかってる。嘆いてばかりもいられず、『薔薇のいれずみ』をついに攻略。着手して三年越しである。クライマックスでは思わず鼻の奥がつーんとなってしまった。映画版のアンナ・マニャーニのセラフィナが見たいが、たぶん別物だろう。風邪は一向に治らない。景気づけに、と聴き始めたニール・ヤング+プロミス・オブ・ザ・リアル『ザ・ヴィジター』が驚くべき大傑作で、涙腺が緩みっぱなし。短すぎることだけが残念。どの曲もライヴが出るのが愉しみというしかない。そしてこういう清く正しくワイルドなロックはニール・ヤングで終わりなのだろうかと訝るだけでまた涙腺が緩む。しかし結局、必要な時に繰り返し聴けば、何度でも甦ってくるのがそれなのだ、ということで続いては、是安アニさんのツイートに倣ってザ・バンド『ライヴ・アット・アカデミー・オブ・ミュージック1971』を。つまり『ロック・オブ・エイジズ』のボブ・クリアマウンテンによるミックス版。ただただ堪能。打合せに出かけたが、終わり次第早々に引き上げる。風邪は治らない。

『クリエイター』と『ザ・ヴィジター』と『ライヴ・アット・アカデミー・オブ・ミュージック1971』

 

(つづく)






青山真治(あおやま・しんじ)
映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況は、『15時17分、パリ行き』の劇場パンフに文章を。3月2日(金)に京都造形映画学科卒業制作東京展『しかと青くあれ』上映後に何かお話を。渋谷ユーロスペース。

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